第七話 兄弟喧嘩は犬も食わない

37:一触即発


 子爵家の朝の食卓。
 本来ならば言葉が飛び交う賑やかなそれであるはずなのに、今朝は違った。

「…………」
「…………」

 妙な沈黙が、食卓を覆っていた。

 エミリアとフィリップは互いに視線を交わし合う。それについては難なくこなせた。が、ステファンの方を見てみると……視線は合わない。彼は無表情で口元にフォークを運んでいた。今度はウィルドに視線を寄越してみる。……これまた視線は合わない。彼はしかめっ面で野イチゴをかみ砕いていた。

「…………」
「…………」

 エミリアとフィリップ、再び視線を交わし合うと、こっそりため息をついた。子爵家の食卓が沈黙に包まれている理由がようやくわかった。どうやら、ステファンとウィルドが喧嘩をしているらしい。原因は分からないが。

 今頼りになるアイリーンはいない。最近働き始めた洋裁店にて、大口の仕事が入ったらしく、泊まり込みで仕事をしているのである。その証拠に、ここ数日、一度もこちらへ帰ってきていない。彼女ならば容易に弟たちの間を取り成してくれそうなものだが、いないものは仕様がない。

 エミリアはパンを咀嚼しながら兄たちをこっそり観察する。ステファンは相変わらず無表情のまま物音すら立てずに食べているし、対するウィルドの食事する音はやかましい。彼らの性格がよく表れていた。

 二人が喧嘩した原因が知りたい。

 純粋にエミリアはそう思ったが、しかしステファンが怒るのは滅多にないことなので躊躇われた。理由を聞くことで、ウィルドへの怒りが再燃することも考えられる。ゆったりとした食事の時間を、ギスギスした空気で終わらせたくなかった。いや、正直な所、今も似たようなものかもしれないが。

「ご馳走様でした」
 ステファンは手を合わせると、静かに席を立って皿を片付ける。何が気に障ったのか、ウィルドはふんっと小さく鼻を鳴らした。ステファンの方ももちろん癇に障ったようで、ウィルドを一睨みする。

「何か?」
「いや別にー?」

 はぐらかすように笑うと、ウィルドはパンにがっついた。ステファンはこれ見よがしにため息をつく。

「食事くらい静かに食べてほしいと僕は思うな」
「はあ? じゃあ食事中は誰も喋っちゃいけないの?」
「別にそうは言ってないけど」
「そういうことだろ? 何、そんなに喋っちゃいけないならいいさ、ステファンだけ喋らなければ。俺たちも話しかけないし、なあ?」

 ウィルドは同意を求めるようにエミリアに顔を向ける。これ以上口論を発展させないためにも、彼女は曖昧に苦笑を浮かべるしかなかった。

「誰かさんには言葉の綾ってものが分からないみたいだ」
「誰かさんがいい子ぶって遠回しにいうからなあ」

 ダンッとテーブルを叩く音が響いた。ステファンだった。
 彼はウィルドを一睨みすると、足音も荒々しく居間を出て行った。さすがにウィルドも圧倒されたらしく、食事中は静かにするんじゃないんですかーなどという空気の読めない発言はしなかった。

 ウィルドも気まずげに食事を終えると、さっさと皿を片付けて居間を出て行った。ポカンと口を開けたエミリアとフィリップだけが残る。二人はすぐに食事を済ませると、頭を突き合わせてテーブルの下に集まった。自然と声も小さくなる。

「フィリップ、どうしよう!」
「珍しいよね、二人が喧嘩するんなんて」
「うん、本当に」

 珍しいというか、基本子爵家の皆はあまり喧嘩をしない。アイリーンやステファン、ウィルドやエミリアなど、日常的な口論はするものの、それが大喧嘩に発展したことはほとんどない。前者の場合はウィルドやエミリアが仲裁し、後者の場合はアイリーンやステファンが諌めるという形で今までやって来たからこそである。

「やっぱり姉御がいないからかなあ……」
 彼女がいないことで、子爵家の均衡が崩れてしまった。そう考えるしかない。

「何が原因で二人は喧嘩してるんだろう」
「わたし、怖くて聞けないわ」
「でも母様が帰ってくるまでこのままってわけにはいかないし……」
「やっぱり、わたし達が何とかしないといけない?」

 こくりとフィリップは頷いた。

「エミリアはそれとなくウィルドを探ってみて。僕は兄様を探ってみるよ」
「うん、分かった。上手くいくかなあ……」
「大丈夫。夜に情報交換しよう」
「分かったわ!」

 エミリアとフィリップ、二人は握りこぶしを作ると、一斉に天に掲げた。
 子供たちの、それぞれの葛藤が幕を開けた瞬間だった。

*****

 学校が終わると、エミリアは張り切ってウィルドの教室にやって来た。ちょこんと顔を出して彼の姿を探す。

「……え、ウィルド!?」
 しかしいくら探しても彼の姿は見当たらなかった。エミリアは授業が終わってすぐこちらへ飛んできたのだ、いくらあのウィルドでもまだ教室にいると思ったのだが……。

「あれ、もしかしてウィルドの妹ちゃん?」
「え?」

 声をかけられ、エミリアはそちらを見やる。教室の隅に、ウィルドの友達クリフの姿があった。

「あ……こんにちは」
「ウィルドを探してるの? あいつならたぶん秘密基地の所かな。俺たち最近秘密基地づくりにハマっててさ」
「それってどこにあるんですか?」
「うーん……秘密基地だしなあ……。俺がバラしたのウィルドに知られたら何を言われるか……」
「そうですか……残念」

 心苦しそうにクリフは視線を逸らす。対するエミリアは、台詞とは裏腹に、嬉しそうに微笑んだ。

「姉御にウィルドを連れてくるように言われてたんですけれど……それならしょうがないですね」
「あ、姉御って……」
「わたし達の姉ですよ、もちろん」

 エミリアはにっこり笑う。それに反比例するように、みるみるクリフの表情は引き攣っていった。

「あ……あーそっか、お姉さんの頼みなら仕方ないね! そうだよね、お姉さんの頼みなら……お姉さんの……お姉さん――」
 早口でお姉さん、お姉さんと繰り返しながら、彼は秘密基地まで案内してくれた。前に一度、クリフは私を恐れているらしいとアイリーンがぼやいていたが、そのことを覚えていてよかった。一体姉の何が恐怖なのかは分からないが、使えるものは使っておかないと。

「クリフさん、案内ありがとうございます。姉も喜びますわ」
「い……いえいえ! お姉さんによろしくお伝え申し上げておいてください!」
「ふふ、そうさせてもらいます」

 にっこり微笑む可愛らしいエミリアは、あのアイリーンとは似ても似つかないはず。にもかかわらず、目の前の彼女のその笑みは、アイリーンを彷彿とさせた。

 気づけば、クリフは自然と深く礼をした。
 やはり姉妹だ。彼女たちには何か人を従わせるような、そんな雰囲気を感じる。クリフは一目散に自分の家へと逃げ出した。

 ウィルドが熱中している秘密基地は、作り始めたばかりなのか、まだほとんど形を成していなかった。ウィルド含む数人の男の子達が、木の板を切ったり石を積み上げたりと作業に没頭している。エミリアが近づくと、一番近いウィルドが先に気付いた。その表情はみるみる曇る。

「何しに来たんだよ」
「ちょっと話があって――」
「誰に聞いてここに来たんだ?」
「別に……誰でもいいじゃない」
「クリフか……あいつ」

 唇を噛むと、再びウィルドは作業に戻る。板に足を置くと、ギコギコ切り始めた。エミリアは更に近寄る。

「もう秘密基地は止めるよう姉御に言われたでしょ? まだ懲りないの?」
「説教は止めろよ」

 短く言い放つ。表情が硬い。エミリアは怯えて黙り込んだ。ウィルドもさすがに言い過ぎたと思ったのか、しばらくするとゆっくり話し出した。

「……前とは場所を変えたから大丈夫。そんなに人里離れてないし」
「ふーん」
「師匠には言うなよ」
「はいはい」

 これ以上ウィルドの機嫌を損ねるわけにはいかないと、エミリアもようやく学習し、口を閉じる。が、すぐに退屈して、ウィルドの傍に腰を下ろした。

「ねえ、それ、いつ完成するの?」
「いつだろうな。完成するのはそりゃ楽しみだけど、でもその過程だって楽しいんだ。早く完成すればいいってもんでもない」
「ふーん。そういうものなのね」

 しばらくエミリアは黙って作業を見つめていた。男の子達はそれぞれ楽しそうに動いている。木を切ったり、石を積み上げたり、地面を掘ったり、布を縫い合わせたり。彼らの中にはリーダーなる者はいないのか、誰に指図されるでもなく自由奔放だ。

 これが男の子の遊びなのねえと、エミリアはどことなく大人びた表情で観察する。以前ウィルドに女は来るなと言われた時は、仲間外れにするなんて!と怒ってもいたが、実際に彼らの遊びを目にすると、確かに女の子の遊びとは程遠い。正直なところ、何が楽しいのだろうかという疑問で一杯だった。

 しかし、いつまでもここに居るわけにはいかない。エミリアは決心すると、一気に立ち上がった。

「ウィルド、何かあったの? 兄様と」
「エミリアに関係ないだろ」
「あ、ウィルド!」

 いよいよウィルドは板を手に持って歩き出した。どこか違う場所で作業するつもりかもしれない。

「……あるわよ。家族なんだから」
 小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。