第三話 母の心子知らず

16:母のおもみ


 女の目は焦点が合っていなかった。おまけに足取りも覚束ない。一目でまともに取り合ってはいけないと分かった。

 女と自分たちの距離は数メートルもない。アイリーンは目の前の女を刺激しない様にそろそろと間合いを取った。走って家に逃げ帰ることも考えたが、フィリップのことを思うとあまり良い考えに思えない。それに、自分にはフィリップを背負って走るだけの体力もない。

 しかしアイリーンたちが一歩後ろに下がるごとに、女もまたすすっと近づいてくる。一向に距離は開かなかった。

「ああ……わたしの子供……わたしのシリル」
 ぼそっと呟いた。それはアイリーンの耳にもしっかり届いた。

「あの……あなた、子供を探しているんですか?」
 必死に言葉を探しながら、アイリーンはフィリップをそっと後ろへ追いやる。

「それなら騎士団の方に相談してみては? 彼らならきっとたくさんの伝手を持っているでしょうし、あなたの子供も――」
「わたしの子供はそこよ、そこにいる」
 女はぴしゃりと言い切る。

「あの、勘違いじゃないかしら? この子の母親は、もう何年も前に亡くなっていて――」
「嘘……それは嘘よ。だって現にわたしはここにいるもの。シリルの母親はここにいるもの」

 少しだけ寂しそうに笑い、女は両手を広げた。

「さあおいで。わたしのシリル」
 傍にいるアイリーンの姿は目に入っていないようだった。ゆらゆらとその瞳はフィリップを見つめていた。ビクッと彼の肩が揺れるのを感じた。

「母様、怖いよ」
「フィリップ……」
 ぎゅっとアイリーンも小さな手を握り返した。しかしその光景に、女は表情を強張らせる。

「何でその人を母と呼ぶの……? 何でフィリップと呼ばれているの……?」
 女はぽつんと呟いた。しかし次の瞬間、髪の毛を逆立て、今までとは考えられないほどの素早い動きでにじり寄ってきた。アイリーンは慌てて後ずさる。と同時に、後ろのフィリップに向かって囁いた。

「フィリップ、家への道は分かるわね? 走って逃げなさい」
「え……? で、でも」
「早く行きなさい。さあ走って!!」

 フィリップはおどおどとした様子でしかし確かにその足は安全な邸の方へと向かっていた。そのことに安堵し、アイリーンは再び女と対峙する。彼女はすでに手が触れそうな距離まで移動していた。

「ああ、行かないでシリル。母を置いて行かないで」
「一緒に騎士団の詰所に行きませんか? あなたの息子さんの手がかりも見つかるかも――」
「う……うるさい! あなたは何なのよ、さっきから! わたしとあの子の仲を邪魔しないで!!」

 髪を振り乱して、女はアイリーンの手を振り払った。その剣幕にビクッとしたが、ここで呑まれるわけにはいかない。アイリーンは穏やかな笑みを浮かべた。

「落ち着いてください。一緒に詰所に行きましょう。私も息子さんを探します」
「う……うるさいうるさい! シリルはあそこにいるの。だから邪魔しないで!」

 大きく叫んでアイリーンを突き飛ばした。咄嗟のことで反応できなかった彼女は、なす術もなく地面に腰を打ち付ける。女はそのままゆっくりと近寄ってきた。

「邪魔……しないで」
 ぽつりと言葉を零すと、女は徐に懐に手を入れた。そしてすぐに右手を振りかざした。その手にはキラッと光るものがあった。ナイフだ。

「母様!!」
「――っ」

 咄嗟にアイリーンはうずくまった。やられる、と思った。しかし衝撃は来ない。不思議に思って恐る恐る顔を上げると、彼女はもういなかった。怯えるフィリップの元へ向かっている最中だった。

「あ……駄目!」
 女の目的はフィリップだった。フィリップの側を離れてはいけなかったのに!

「フィリップ!!」
「母様!」
「私のシリル……。私の……!」

 震える声で女は呟く。

「ねえシリル、良い子だからわたしの元に帰っておいで。ごめんね、あの時わたしがあなたから目を離したから怒ってるんでしょう。ごめんね、お母さん何度でも謝るから許してよ、お願い」

 その声は何とも切なくて、苦しそうで。

「わたしのことを母と呼んで……お願い」
 母というは、このようなものなのかと思った。子がどこに行っても子を探し求める。これこそが、母親というものなのだろうか。

 ……私では、母にはなれないのだろうか。

 そんな思いが胸を貫く。
 所詮、子を産んだこともない私はただの小娘で、母にはなり得ず、そして家族にすらなりえない。血の繋がりが無くとも、暮らしていけると思った。でもそれはただの思い込みだった。私たちがやっているのは、ただの家族ごっこ――。

「か……母様っ……! 助けて」
 ハッとしてアイリーンは顔を上げた。血の繋がりのない、けれども大切な弟がこちらに向かって手を伸ばしていた。

「この子は私の弟よ! あなたの息子じゃない!!」
 気づけばそう叫んでいた。そして瞬時に思い直す。相手を刺激してどうすんだ、この馬鹿!と。

 しかし刃はもうそこまで迫って来ている。今度こそもう駄目だ、そう思った瞬間耳に届く、誰かが叫ぶ声。それも複数。

 アイリーンが聞こえているのに、目の前の女に聞こえていないはずがない。彼女も焦った様に廻りを見回した。その一瞬の隙が、たった一度きりの好機だった。

 女に体当たりするかのように、アイリーンはフィリップを抱えながら突進した。虚を突かれた彼女はその場に尻餅をつく。そのまま走り出したはいいが、小さな弟を抱えて長時間走るのはきつい。しかしせめて、あの声が届く場所まで、聞き慣れたあの声の元へとたどり着きたい。

 その声はもう近かった。

「姉上!」
「――ステファン!?」

 突然傍らの茂みから飛び出してきた黒い塊にステファンは驚いた。しかし見知ったその声に、すぐにしっかりとそれを抱き留める。二人分の重さだったが、そのことに動じないほどもう彼は成長しつつあった。

「姉上、フィリップ……。良かった、無事で」
「一体どうしてここに――ああ、こんなことを話している暇はないわね。今すぐここを離れなくちゃ。追われてるの」
「もしや先日の不審者ですか?」
「ええ」

 アイリーンが頷くより早く、ステファンは踵を返し、大きく叫んだ。

「皆さん、二人が見つかりました!」
 その声に、どこからかわらわらと男たちが出てくる。彼らは皆、一様に騎士団の制服を身に纏っていた。言わずもがな、警備騎士団の人たちだろう。何がどうなっているのか、アイリーンはしばし呆気にとらた。やがてそのうちの一人、副隊長のマリウスがこちらに足早にやって来た。アイリーンは慌てて頭を下げる。

「二人とも怪我はないかな?」
「はい、お陰様で。ありがとうございます」
「そりゃ良かった」
「あと、姉たちを追っていた不審者が向こうにいるそうです。すみませんが、よろしくお願いします」
「はいはい。こっちこそご協力感謝するよ。危ないかもしれないから君たちはこの辺りでじっとしておいてね」
「あ……っと、彼女、ナイフを持ってるから気を付けてください!」
「りょーかい」

 返事は彼らしい軽いものだったが、警備団を率いていく後ろ姿は何とも頼もしい。辺りを警戒した様子で、警備団はそろりそろりと進んでいく。枯葉を踏む音さえ慎重なその姿に固唾を呑んだ。

「見つかったのか」
 そんな時、後ろからの突然の声に、飛び上がった。声からあの女性ではないと分かっていても、それでも気配のない声に驚くのは当たり前だ。アイリーンは軽くオズウェルを睨んだ。

「もう……びっくりさせないでよ」
「元気そうだな。不審者は?」
「マリウスさんが向こうへ追っていきました」
「そうか。じゃああいつに任せるとしよう」

 言いながら、オズウェルは長い息を吐きながら遠くを見つめた。もうマリウスたちの姿は見えないが、僅かな気配が感じられた。

「あの、騎士団を動かしてもらってありがとうございました。お陰様で二人とも無事に帰って来れましたし」
 声の主はステファンだった。お礼を言うべきアイリーンは、口をきゅっと結んでそっぽを向いている。似ていないようで似ている姉弟に、オズウェルは苦笑を漏らした。そして普段通りの笑みを浮かべるステファンに顔を向ける。

「急に素直になったな」
「どういう意味でしょう」

 オズウェルの言葉に動揺することなく、彼は相変わらず笑顔のままだった。しかしその瞳は笑っていない。

 ――あの時とは大違いだ。日もすっかり沈み、さあ夕食を摂ろうかと考えていた矢先、彼が詰所の戸を叩いたあの時とは。
 あの時、ステファンはなかなか本題を話そうとはしなかった。きまり悪そうに視線を逸らす彼に、オズウェルは薄らと思いだしていたものだ。姉に近づくなとつい先日釘を刺された言葉を。そしてようやく彼が口を開いたと思ったら、姉と弟が帰って来ないときた。非常に言い辛そうに、悔しそうに二人を探して欲しいと頭を下げる彼の姿に、やはり姉弟だと思った。家族のためならば、自分の言葉を撤回することも厭わないのか。

「何の話?」
「姉上は気にしないでいいんですよ」

 いや、もしかしたらそれが彼らの矜持を貫くことに繋がっているのかもしれない。自分を見失わない彼ら姉弟は、この欲望渦巻く貴族社会の中では非常に珍しい存在なのかもしれない――。

「この方が昔の話を持ち出しているだけですから」
「…………」
「あと、先日僕があなたに伝えたことはまだ有効ですからね。気を付けてください」
「…………」

 確かに、ある意味では珍しい。彼ら以上に自分に正直な人間はいるだろうか。いやいない。

「隊長ー!」
 どこかで自分を呼ぶ声がする。オズウェルはため息をついて姉弟への邪念を振り払った。今は任務中だ。この姉弟への不満は家に帰ってから爆発させよう。
 こちらへ向かってくる隊員に向かって手を挙げながら、オズウェルは心の中で誓った。

「隊長、容疑者を発見しました。すでに拘束済みです」
「……ああ、すぐ行こう」
「後、確認のためにこちらに来ていただきたいのですが……よろしいですか?」
「じゃあ私が行くわ。いいわよね?」
「ああ」

 オズウェルが頷くと、アイリーンは小さな弟をそっとステファンに預けた。

「気を付けてくださいね」
「ええ」

 先ほどの隊員が入れ違いにステファンたちの警護についた。アイリーンとオズウェルは連れだって森の中を歩くが、会話はない。しかし不思議とこの沈黙に悪い気はしなかった。口を開けば喧嘩ばかりの二人にとっては非常に珍しかった。
 少し開けた場所で、あの女性と隊員たちは見つかった。気を使っているのか、女性の顔は向こうに向けられていた。

「こっちこっち」
 囁くようにマリウスはオズウェルに声をかけた。頷いて自身もそろそろと彼に近づく。

「ごめんね、疲れてるところ。一応確認を、と。彼女で間違いないかな?」
「はい」

 重々しくアイリーンは頷いた。表情は分からないが、こちらに向けられている背は小刻みに揺れていた。おそらくあれは、自分が捕まったことに対する悲しみではない。我が子が自分の手から離れてしまったことに対する哀しみ、もう会えないかもしれないという絶望なのかもしれない。

 何かを感じたのか、ふいっと女性はこちらを向いた。その瞳にもう怒りは無かった。ただどこにも向けられない深い悲哀だけが見て取れた。

 目が合ったのは一瞬だった。気づくと彼女は消えていた。数人の隊員に連れられ、詰所へと向かったようだ。あとに残るは、アイリーンとオズウェルの二人だけ。

「……助かったわ。ありがとう」
 自然に言葉が漏れていた。そう思ったのは相手も同じだったようで。

「嫌に素直だな」
「うるさいわね」

 早速いつもの様に口論が始まりそうな気配だったが、どちらも疲れているのか、あまり言葉に棘が無い。

「今日は疲れただろう。もう家に帰って休め」
「いいの?」
「事情聴取は明日にしてやる。家まで送って行こう」
「……お願いするわ」

 そんなの結構よ、といつもならツンと澄ました顔で断るはずのアイリーンだが、今日ばかりはそんな訳にもいかない。殊勝とまではいかないものの、いつもよりは大人しい返事をした。

 先ほどの合流地まで戻ると、ステファンが足早にこちらに近寄ってきた。危ないことは何もしていないのだが、彼はやたらと心配そうに眉根を寄せている。

「姉上、大丈夫でしたか?」
「ええ。遠目から確認しただけだから。フィリップは?」
「眠ったままです。疲れてるんでしょう」
「そうね。そのまま寝かせてあげましょう」

 穏やかなフィリップの寝顔を眺めながら、ふっと息を吐く。その瞬間、鮮やかに辺りの音が甦った。鳥が羽ばたく音、近くの下草の巣鈴虫の泣き声、そよそよと風になびく木の葉。そんな些細な夜の森の音が、ようやく日常に戻ってきたアイリーンの耳にも入ってくる。随分日常から離れていたような気がする。周りを見渡すと、連絡事項の後継ぎをしているらしいオズウェルと隊員が目に入る。

「う……ん、母様……」
 寝言か、とアイリーンが再び正面に顔を戻すと、とろんとした眼と目が合った。

「あら、起こしちゃったかしら? まだ寝ていてもいいのよ。ステファンが負ぶってくれるから」
「ううん。もう大丈夫」

 危なっかしげな様子でフィリップは地に足を下ろした。足はふらついているものの、案外その足取りはしっかりしているようで、思わず保護者二人は胸を撫で下ろす。

「あの人……」
「なに?」
「あの人、自分の子供を探してるんだね」
「……そうね」
「僕、そんなに似てたのかな」
「さあ、どうかしらね」
「やっぱり、お母さんって子供のことが大切なんだね」
「そりゃそうよ。血が繋がった大切な子供なんだもの」

 言いながら、アイリーンは同時に自分の言葉を噛みしめていた。

 血の繋がった大切な子供。

 世間一般から見れば、家族は大切な括りだろう。そんな中に赤の他人が入る隙なんて無い。ならば、もしフィリップの父を名乗る者が出てきて、彼を連れ去ろうとしてしまったら、自分はどうすればいいのだろうか。その時、家族でもない自分にはどうすることもできないのだろうか。

「母様」
 いつの間にか固く握っていた手を、小さな手が包み込んでいた。きゅっとアイリーンも握り返す。

 でも、子供を――守らなければならない弟妹達を持ったからこそ分かる。彼女の気持ちが。何をしてでも守りたいという強い気持ち。

「うーん……!」
 暗い思いを振り払うかのように、アイリーンは思いっきり伸びをした。突然の行動に、二人の弟が目を丸くしたが、構いはしない。何だかジメジメ考えていたのが馬鹿らしくなってきた。

「さすがの私も今日はちょっと疲れたわ。早めに休もうかしら」
「姉上」
「ん? 何かし――」
「そう簡単に寝られると思わないでください」
「……え?」
「あなたに言いたいことは山ほどあります」

 ステファンはにっこりと黒い笑みで笑っている。いや、口元は弧を描いているが、瞳は笑っていない。ひくっと顔を引き攣らせた後、アイリーンはより一層フィリップの手を握り返した。

「あの……フィリップ」
「うん?」
「一緒にステファンに怒られようか」
「うん!」
「あ、ご心配なく。怒るのは姉上だけですから」
「ええ!?」
「そりゃあそうでしょう。こんな時間までフィリップを連れ出した姉上の責任です」
「ちょ、ちょっと話を聞――」
「覚悟してくださいね」

 にっこり黒い笑みを浮かべる弟に、アイリーンは静かに自分の行く末を悟った。