第十七話 一難去ってまた一労

108:門前にて


 翌日の朝は、爽やかな晴天だった。そのまましばらく微睡に浸っていたい気分だが、そうもいかない。今日は孤児院に行く日だ。
 手早く身支度を整え、アイリーンは階下へ降りた。しかし居間に入ると、すぐに彼女は目を丸くする。皆――エミリアだけではなく、ステファンもウィルドもフィリップも、準備万端だった。

「え……っと、皆どうしたの? 今日はどこかへ出かける予定が?」
「ん? 俺たちも行くんだよ」
「皆に協力を要請したんです。孤児院での戦いに向けて」
「協力……戦い……? そんなに大事なの?」
「ええ、わたしの計画では、この中の誰一人欠けることなど許されませんわ」
「は、はあ……」

 もともと、孤児院でのゴタゴタは自分たちで解決するつもりだった。間に騎士団が入ってくれれば、もっと早く丸く収まるかもしれないが、そこまで迷惑はかけられない。でもまさか、子爵家総出となると……何だが先行きが心配だ。指揮を執っているのがエミリアであるというのも懸念材料の一つである。エミリアにしてみれば、姉御には言われたくないですと鼻で笑われそうだが。

「じゃあすぐにでも孤児院に行きましょうか。手続きは早い方がいいわ」
「姉御、朝ご飯は?」
「今日はいいわ。帰ってからゆっくり食べる。その方が何倍もおいしいでしょう」
「自信満々ですね」
「別にそういう訳じゃないわよ。願掛け……のようなものよ」
「願掛けねえ……」

 ウィルドが意地悪そうな顔になった。

「じゃあ、もし上手くいかなかったら、今日師匠はご飯抜きってことで!」
「は、はい!? どうしてそういうことになるのよ!」

 慌ててアイリーンは声を上げる。しかしウィルドは相変わらず飄々としたままだ。

「いいじゃん、その方が頑張れるでしょ? 願掛けってことで」
「真似しないでくれる? それにどうして私だけなのよ。言いだしっぺがするべきでしょう」
「だからその言いだしっぺが師匠なんじゃん」
「だっ……でもそれは!」
「あーもうはいはい」

 エミリアがうんざりしたような声を上げた。

「もういいですから。姉御もウィルド相手にムキにならないでください」
「んなっ、俺相手にって何だよー!!」

 道中、いつものように騒がしい光景で人々の注目を掻っ攫い、一行は孤児院へ向かった。
 孤児院へ続く路地裏を歩くころには、さすがのアイリーンたちも言葉少なになっていったが、それでもエミリアの瞳は未だ、闘志で燃えたぎっていた。

「兄様とフィリップは、朝話したように、しばらくしたら行動を起こしてください。兄様とフィリップの様相なら、難なく第一関門を突破できるはず。ウィルドはそのまま近くで待機、フィリップから合図があったら中に侵入してね。地図は持っていると思うから、すぐに配置につくように」
「はーい」

 てきぱきと指示を下すエミリア。アイリーンは何だか置いてけぼりのような気持でその様を眺めていた。何だか、エミリアがいつもの彼女ではない様に見えた。……もしかしてこれが本来のエミリア? ――そう考えると、少々恐ろしくなってくるアイリーンだ。

「姉御はもちろんわたしと一緒に院長先生のお相手です。その際、できるだけ院長先生を挑発してください。彼女にものを考える暇を与えないよう」
「挑発……ねえ。私にそんな器用なことできるかしら?」

 アイリーンは思い悩むように首を傾げだ。
 もともと、自分は嘘をつくのも演技をするのも苦手だ。演劇出演の依頼をされた時も、役柄が自分に合っていたからこその産物だったのだが――。

「大丈夫ですわ。姉御は通常運転で通じますもの」
「……それ褒めてるの? 褒めてるのよね?」
「さあ、どうでしょうか」

 はぐらかすようにふふふと笑った後、エミリアは孤児院に向かって指を突きつけた。

「さあ、もう敵は目前ですわ。皆さんのご武運と、姉御の今日のご飯の行方を祈っています」
「え……結局私のご飯は賭けの対象になっているの……?」
「安心してください。言いだしっぺのウィルドのご飯も対象ですから」
「ええー! そんなの聞いてないよっ!」

 ウィルドがその場でドタバタと地団太を踏んだ。

 ……騒がしい。
 子爵家が騒がしいのはいつものことだったが、しかし孤児院にとってはそうではない。朝早くから門前にてこの騒動。孤児院から数人の人影が出てきた。

「皆、隠れてください。ここはわたしと姉御が」
「頑張って!」

 フィリップの小さな声援を最後に、ステファンたちは身を隠した。アイリーンとエミリアは再び孤児院に向き直る。と、指に何かが触れた。エミリアの小さな手だった。

「姉御……」
 それはゆっくりとアイリーンの手と絡まっていく。

「手を、握っていてもいいですか……?」

 瞳は揺らぎ、眉はへにゃりと下がり。
 先ほどの、立派に指揮を執ってみせたエミリアとは大違いだ。どちらの彼女も本物なのだろう。上手く表に出せないだけで、本当は。

「もちろんよ」
 アイリーンはぎゅっと握り返した。エミリアは一瞬だけパーッと喜色を露わにした。しかしすぐに顔を引き締めると、再度孤児院を見据える。敵はもう目の前だった。

「エミリアちゃん、やっと戻って来たんだね」

 奇妙な光景だった。
 エミリアよりも僅かに年上の少女が先頭に立ち、その後ろでは職員が腕を組んで立っている。何だかこの少女が職員たちを従えている様に見えた。

「今回は保護者も一緒?」
 彼女の視線がアイリーンに移る。値踏みでもしているかのようだった。上から下を行き来するその視線。それはやがて、顔でも身体でもなく、アイリーンのドレスにて止まった。そしてぼそっと呟かれる『ださっ』という言葉。

 ピキッとアイリーンは固まった。聞き捨てならなかった。
 少女――サリーが、アイリーンを完全に敵に回した瞬間だった。
 そんなこととはつゆ知らず、サリーは続ける。すっかり調子に乗っていた。

「本当、一人じゃ何にもできないくせによくやるよね。聞いたよ、ここの若い職員の人たちも懐柔したんだってね。そういう所だけはずる賢いんだから」
「あら、ずる賢い?」

 とげとげしい声だ。ついでに表情も意地悪なアイリーン。

「言葉の選択がおかしいようね。賢いって言ってくれる? ここを抜け出すために、まず職員から味方に引き入れていくなんて良い考えじゃない。それに、それを行動に移すのも並大抵のことじゃない。……何あなた、もしかしてエミリアを妬んでいるの?」
「なっ、誰が……!」
「だってそうじゃない。理由もなくいちいちエミリアに突っかかってくるなんて、エミリアのことが羨ましい以外に何があるのよ」
「こいつの……どこが羨ましいのよ! 弱いしすぐ泣くし問題ばっか起こすし! 皆手を焼いてんのよ!」
「よく言うじゃない、手のかかる子ほど可愛いって」

 きょとんとした顔でアイリーンは言う。何を言っているの?とでも言いたいような表情だった。

「それに、エミリアを問題児にしているのはあなたたちでしょう? あなたたちの規則で縛り付けて。現に、私達の家ではエミリアは問題なんて起こさないわ」

 自信を持ってアイリーンは言う。
 問題は起こさないが、しかし毒舌は飛び出す。そのことは胸の内にこっそり秘めた。

 しかしここまでアイリーンが弁舌を振っても、サリーは未だ心折れない。まだ視線を鋭くし、長い前髪の隙間からアイリーンとエミリアを睨み付けた。

「何よ、でも結局あんたに泣きついたんじゃない。ここから抜け出して、でもそれ以上何もできないからあんたを呼んだんでしょう? 私を助けてって」
「それの何がいけないの? 助けを求めることの、何がいけないの?」

 ……なかなか引かないわね、この子。
 純粋なアイリーンの心境だった。早くここを突破して、今回の首謀者院長の元へ行きたいと言うのに、さっきから何だろう、この少女は。こんな所で時間を食っている暇はない――。でも、これだけは言いたかった。

「あのね? エミリアほど料理上手で頭がよくて気立てもよくって家族思いで優しくって可愛い女の子なんていないんだから! そんな子に助けを求められて断る輩が、いったいどこにいるって言うのよ!」
「あ……姉御、止めてください……」

 エミリアは堪らなくなってアイリーンの袖をくいと引っ張った。
 そろそろ恥ずかしい。
 その一心だった。彼女の大声は孤児院中に響いていて、窓からは何事かと子供たちも職員たちも顔を出している。彼らに、姉の妹馬鹿っぷりを見られるのは何とも恥ずかしかった。もちろん姉の気持ちは嬉しいが、それでも。

「一体何事です。こんなに朝早くから」
 ようやく院長のお出ましだった。こんな時にですら、彼女の身だしなみはバッチリだった。ゆっくり時間をかけて支度をしていたのだろう。

「院長先生、ようやく問題児のエミリアちゃんのご帰還ですよ。懲りずに何度も何度も抜け出して……。もう家出なんて気を起こさないくらい、たっぷりお仕置きしないとですね」
 サリーは嬉々として院長の隣に並び、再びエミリアを睨み付けた。

「あら、まだ言うの? エミリアが問題児だなんて」
 新しい敵の出現にもアイリーンは怯まない。それどころか、なお一層歓喜に溢れた様に見える。

「そうなると、なら私も問題児ってことになるのかしら。ね、院長先生」
「――はい?」
「だって私、エミリアの比じゃないくらい長い期間、この孤児院を家出しているんだもの」

 怪訝そうだった院長の顔が、次第に苦々しいものへと変わる。

「もう一体何年になるのかしら……。そんな私に比べたら、エミリアなんて可愛いものね」
 アイリーンは嬉しそうに妹を見る。彼女は困惑して、アイリーンの袖を引っ張った。

「どういうことですか? 姉御が家出?」
「私ね、小さい頃にステファンと一緒にこの孤児院に入れられたことがあるのよ。といっても、一日と経たずにここから逃げ出したんだけれど」
「逃げ出した? どうしてですか?」
「それはまた今度ね」

 ふわっとエミリアの頭に手を乗せると、院長に向き直る。

「覚えてらっしゃるでしょう? 私、リーヴィス=アイリーンです。お久しぶりですわ」
「……ええ、どうも」

 素っ気なく答える院長の顔色は優れない。

「中でお話しましょう」
「ええ、そういたしましょう。ここでは目立ちますものね」

 少々の皮肉を混ぜ、アイリーンは歩き始めた。もちろん、その左手にはエミリアの手が繋がれている。

「……問題児同士お似合いね」
 去り際にサリーが小さく呟いたが、エミリアは物ともしない。

「あら、ありがとう。だって私たち、姉妹ですもの」
 それどころか、純粋な笑みを浮かべて言ってのける始末。

 サリーはぎりっと唇を噛んだが、エミリアの隣に立つアイリーンの笑み――優しげな微笑みの様に見えて、でも瞳の奥は笑っていない――を見て、言葉を引っ込めた。

 決して怖気づいたのではない。しつこいこいつらに絡むのが面倒くさくなっただけよ。
 サリーはそう自身に言い聞かせながら、そのまま孤児院の中に入って行った。

 ここに入った者は、そう簡単に出れることなんてできない。
 それは、サリーが身に染みて実感していることだった。