第十七話 一難去ってまた一労

107:指輪


「――もう、どうしてあんな人があなた達の後見人なのかしら」
 すぐ側で声が上がった。ようやく家に帰れる、と嬉しそうだった子供たちの顔は一気に暗くなった。振り返ると、未だ、先ほどの女性――ダイアナが唇を尖らせて立っていた。

「……まだいらっしゃったんですか」
 冷たい目で見つめるアイリーンに、ダイアナは慌てて反論する。

「あっ、あの……ちょっと足が痛くて、ね?」
 取り繕ったような言葉に、子供たちももううんざりだった。一人、また一人と家に入っていく。更に慌てるダイアナ。

「ここに来るとき森を通らなくてはいけないでしょう? 慣れない土地を歩くものじゃあないわね。マメができて痛くってしょうがないわ」
 ついに、そこに残るはアイリーンとステファンだけになった。ダイアナはうるうると瞳に涙を浮かべる。

「……本当に痛いのよ。お願い、ちょっとの間だけでもいいから、お話しましょう?」
「…………」

 なおもアイリーンは疑いの目でダイアナを見つめる。が、彼女の額に汗が光っているのを見て、大きく息を吐き出した。

「……家で、休まれて行かれますか」
 嫌々ながらアイリーンはそう提案した。ダイアナの表情が一気に明るくなる。

「まあ、本当? それは助かるわー。お言葉に甘えてもらってもいいかしら?」
「……いいんですか? この方、一度屋敷に入ったらなかなか出て行きそうにないですけど」
「仕方ないでしょう、こうなっては」

 お帰りください。
 たったその一言が言えない。昔なら、そんな言葉すらもなく箒を持って追い出しただろうが、もう今の彼女は、そのような分別のないことをするような年齢でもない。

「私の部屋に行きましょう」
 アイリーンは問答無用で彼女を私室へ案内した。皆も疲れているはずだ。彼女の捲し立てるような話し方の被害者は、自分だけでいい。

「……紅茶でよろしいでしょうか」
「ああ、いいのいいの。私のことは気にしないで」

 ダイアナは優雅に首を振った。

「でね、先ほどの話に戻るんだけど」
「はい」

 そもそも先ほどの話というのが思い出せない。何の話だったかしら――。

「私ね、思うんだけれど、あの人――ラッセルさんとはもう今後付き合わない方が良いと思うわ。この際、いっそのこと後見人も辞退してもらって、もっと立派な大人の人にこの家を継いでもらった方が良いと思うの。その方が、あなた達も安心でしょう? あんな……甲斐性なしの人よりも。あ、そうだわ、私が後見人になってあげましょうか? こう見えても私ね、采配を揮うのが得意なのよ。主人は滅多に家に帰って来ないから、屋敷の女主人として立派に使用人も取りまとめているの。ほら、私達も一緒にここに住めば、一石二鳥でしょう? 私達は今の窮屈な家からおさらばできる、あなたたちは料理や掃除――家のことについて何も心配することは無い。ほら、どう?」
「どう……と言われましても」

 視線を上にやり、アイリーンは上の空で答えた。話す速度が速すぎて、彼女の話の半分も理解していない。ただ一つ、これだけは言える。

「自分のことは自分でできます。あなた方の力はいりません」
 両親が亡くなってから、ステファンと二人で暮らしてきた。その後も順々に家族が増えていったが、その生活は破綻することは無かった。

 今回の誘拐事件だって――と言ってもまだエミリアやウィルドの件は解決していないが――何とか皆で解決したし、これからもやっていける。そう信じているからこその言葉だった。

 ただ、そうは言いながらもアイリーンは、料理も掃除も畑仕事すら子供たちに丸投げだった自分が少しだけ情けなくなった。仕事をしているとはいえ、年長として少しだらしが無かったかもしれない……。いえ、確かにそうね。これからは私も料理や掃除を少しずつ手伝うことにしましょう――。エミリアやフィリップが聞いたら、『家がもっと汚くなるので大人しくしていてください』とでも言われてしまうそうなことをこっそり考えていた。

「お話は以上ですか?」
「え? ええ……」

 言葉を濁す。話題を探しているようだ。まだここに居座るつもりなのか――とアイリーンが視線を落とした時、采配を揮うの指が目に入った。右手の指に光る、細い指輪――。

「それ……」
 思わずアイリーンは采配を揮うの腕を取った。彼女の指に、釘づけになった。

「その指輪は、一体どうなさったんですか」
「え……え? 何のこと、かしら?」

 そう言いながらも、女性の右手は、その指輪を隠すかのようにすぐにひっこめられた。アイリーンの声が固くなる。

「その指輪には見覚えがあります。記憶違いでなければ、私の母の物だったはず。それをどうしてあなたが」
「な……何かの見間違いではなくって? 似たような指輪はたくさんあるし、それに……あの頃のあなたは、まだ小さかったから」
「私、こういう時の勘は妙に冴えるんです。それに、証拠ならあります」

 もう後には引けない。だからこそ、アイリーンは堂々と胸を張った。

「その指輪の内側に、イニシャルが彫ってあるはずです。父と母の。その指輪は……父からの贈り物ですから」
 ぎくっと采配を揮うの身体が固まり、その視線は、ゆっくりゆっくり指輪に向けられる。

「私……てっきり借金取りの方が全てここの物を持って行ったのかと思っていました。……あなたも、その借金取りの一員だったようですね?」
「失礼な!」

 瞬間、采配を揮うは激高する。アイリーンの嘲笑に我慢できなくなったらしい。彼女の態度そのものが、アイリーンの言うことを肯定しているとも知らずに。

「もっ……もう、あなたたちなんか知らないわ!」
 真っ赤な顔で立ち上がり、彼女はどんどん足を踏み鳴らした。

「あら、それは願ったり叶ったりですわ。もう来ないでください」
 ドシドシと騒がしい音を立てながら采配を揮うは階段を下りていく。何事か、と子供たちも居間から顔だけを出した。なにやら采配を揮うが怒っているのを見て、にんまりと口元に笑みを浮かべる。

「お帰りはあちらですわ」
 エミリアが茶化すように扉を指さした。女性は真っ赤になって扉に突進した。少しだけアイリーンは溜飲が下がった気がした。

「……すごい剣幕でしたね。今度は何を言ったんですか?」
「さあ。身に覚えがあるからあんな態度になるんでしょう」

 ステファンは興味津々といった様子だが、それ以上説明するのも面倒で、アイリーンは背を向けた。

 ……指輪を、取り戻せなかった。証拠と言われても、所詮はイニシャルしかない。それだけでは、ただの言いがかりと言っても過言ではない。
 それに、それほど取り戻したいと言う強い思いもなかった。昔ほど、物には執着はないと思う。物に縋ってしまえば、それが無くなった時辛い思いをしてしまう。でも記憶なら。物に縋るのではなく、今この瞬間の時を大切にするのであれば、いつまでもそれを糧に生きていける。

 そんな風に思う様になってからと、アイリーンもいつの間にか自分の中で区切りをつけることができるようになっていた。

「と言っても、扇子は別だけれど」
 これは……違う。これは、あの日からいつも私の手元にあったもの。これだけは譲れない。

「今日はもう疲れたわ……」
 はあ、と大きなため息をつきながら、アイリーンは居間へ向かった。もちろん、戸締りはきちんとしてから、である。もう誰の侵入者も迎えたくない。

「早くふかふかなベッドで寝たいわ」
「そうですか……」
「え?」

 いつの間にか、エミリアが傍にいた。その顔は暗い。

「ウィルドー。姉御、今日はもう夕ご飯いらないって。お代わり自由になったわよ」
 彼女は居間に向かって叫んだ。アイリーンは当然慌てる。

「ちょ……ちょっと、エミリア待っ――」
「よっしゃあああ! 俺が全部食べてやる!」
「ま、待ちなさいウィルド! 私も食べるわよ!」

 慌ててアイリーンは居間へ向かった。早くしなければ、やたらと食い意地の張った弟に全て食べられてしまう!

「……大丈夫だよ! いくら俺だって、節度くらい守……もごもご」
「……それ、口に食べ物を詰めていう台詞かしら?」

 アイリーンが呆れたように言うと、同じテーブルについていたフィリップがクスクスと笑いだす。

 姉と兄の騒がしい声を聞いてようやく、子爵家に帰ってきたのだと、フィリップは心の底から実感するのだった。