第十六話 団結は源なり
105:再び
アイリーンたちは、フィリップの部屋を後にしてからしばらく、声を出すことはしなかった。否、出せなかった。
誰もが、何か言いたかった。しかしこの思いを言葉にすることができない。余韻、ともいえるかもしれない。この尾を引くような奇妙な感覚。
「おい、いったいどうなってるんだ?」
しかしそんな一行に、気安く――いや、戸惑ったように声をかける者がいた。オズウェルである。拘束を外されたのか、手首を擦るようにして近づいてきていた。
「急にウォーレンが来て、俺のことはもういいと言われた。その後も、大人しく何もせずに屋敷を出ているようだったしな。何がどうなっているのかさっぱりだ。……しかしフィリップは無事助け出せたようだな。良かった」
フィリップを優しく見つめ、オズウェルは頷いた。フィリップの方も、破顔して、礼を言おうと口を開いて――。
「良かったー!」
突然叫び出したアイリーンに、抱き締められた。その力は、男顔負けである。
「本当に良かった……! もう一体どうなることかと――」
「うん、本当に!」
「本当ですわ!」
しかしその姉の暴走を止めるはずの弟妹達も、姉に続いて弟に抱き着いていた。オズウェルは呆気にとられる。
「何だこれは……」
しかし相変わらず、アイリーンたちは良かったよかったとそれだけしか口にしない。彼らの頭越しに、フィリップと目が合う。どこか愛おしそうな表情だった。
「心配かけて、ごめんなさい」
ゆっくりとアイリーン、ウィルド、エミリアの頭を撫でていく。
「ありがとう……本当に。僕、子爵家に来れて良かった。皆が家族で良かった」
「……フィリップ……」
「ありがとう。エミリア、ウィルド。……姉様も」
「……え?」
「姉様……これから、こう呼んでもいい?」
アイリーンがそっとフィリップから頭を離すと、彼は上目づかいでこちらを見上げていた。これで心臓を撃ち抜かれないわけがない。
「もちろんよ! 皆の中で最高の呼称だわ!」
「ええ……どういうことですか、姉御。わたし達の呼び方は気に入らないとでも?」
「そうだよ、失礼だよ師匠!」
次々に不貞腐れる子供たち。しかしアイリーンもこれで引くわけにはいかない。
「いえ、気に入らないも何も……。そもそもエミリア。何よ姉御って。もうちょっと可愛らしく呼べないのかしら。できればあなたにはお姉さまって呼んでほし――」
「姉御にお姉さまは似合わないので」
「……コホン、そしてウィルド、あなたのその師匠もよく分からないわ。私はあなたの何の師匠なの?」
「……あれ、そういえば何だっけ。ずっと昔のことだから覚えてないや」
「由来も覚えていなのにどうして頑なにそう呼び続けるのよ。あなたには姉ちゃんって呼んでほしいわ」
「ええ……なんか師匠には似合わないし」
「ちょっと! 何なのよさっきから似合わない似合わないって! ただそう呼んでほしい……ただそれだけでしょうが! ……あと、ついでに言わせてもらうと、ステファンには姉さんと呼んでほしいわね。姉上じゃあ何だか堅苦しくって――」
アイリーンの周りに子供たちかまとわりつきながら、一行は屋敷を出た。そのことにすら気づかず、彼らは話に夢中だった。オズウェルも何だか眩しいような気持ちで彼らを見つめていた。ようやく本来の子爵家が戻ってきた、そんな心地だった。
「――ね、皆もそう思うでしょう? だいたいね、ステファンはどうして私にだけ敬語なのよ。堅苦しすぎるのよ――って」
ハッとアイリーンの足が止まる。どうした、とオズウェルが問う暇もなく、次々とフィリップ、エミリア、ウィルドの足が止まる。
「あ……っと、私、嫌な予感がするのだけど」
「ここへは、皆総出で来たんだよね?」
「そうよ。皆――一人残らず、来たのよ。もちろんステファンも」
「そしてバラバラになった。あいつ……俺を庇って」
ウィルドがワッと両手で顔を覆う。肩が震えている。アイリーンたちは真っ青になった。
「なっ、なに、何があったの!?」
「兄様はっ、いったいどうなさったんですか!」
「ウィルド!」
「〜〜っ」
しかしやがて気づく。肩を震わせている彼は、泣いているのではなく、笑っているのだと――。
「くっくっく……。あいつ……馬鹿だよあ! 咄嗟に出てきたのがヒュルエル通り! ここからどんだけ離れてるってんだよ!」
あはは、とウィルドは腹を抱えて笑い転げる。アイリーンたちとしては、彼が何を言っているのかいまいち分からなかったが、しかしステファンが無事であることだけは薄らと理解できた。ホッと胸を撫で下ろす。
「何だ、無事ならいいのよ。てっきり私――」
「無事なら、いい……?」
ドスの効いた声だった。思わすアイリーンは震え上がった。振り返りたくない、絶体に振り返りたくない――!
「あれ、こちらを見てもくれないんですか……。ひどいな、折角ここまでたどり着いたというのに」
そう言うステファンの様相は、言葉通り散々たるものだった。よろよろと足取りは覚束ないし、服も擦り切れている。まさに満身創痍といった様子だ。
「何でここに……って、まさかステファン、もしかして一度ヒュルエル通りまで行って、それからまたこっちに帰って来たの?」
「……ご名答。そうだよ、あそこまで行って、そしてまた帰って来たんだ……!」
ウィルドが驚くのも無理はない。なにせ、ヒュルエル通りとここは相当の距離がある。ウィルドですら、今から走って行って帰って来いと言われたら眩暈を起こすほどの距離だ。
若干ウィルドの瞳に憐れみが浮かんだのを見て、ステファンは自嘲するように笑った。
――何だか楽しそうに屋敷から出てくる子爵家を見つけた時、ステファンは混乱と疑惑に苛まれた。
え……え、どうして皆屋敷から出てきて……? フィリップは……って、あそこにいるし、姉上の隣にいるし。え……え? フィリップは屋敷に捕らえられていたんじゃないの? 皆で救い出したの? 救い出して家に戻ろうとしているの? え、僕は……?
――とこんな風に、しばらくの間放心していたが、すぐに我に返り、幸せそうな一行に突撃する事態となったのである。
「あ……っと、別に忘れていた訳ではないのよ? ただ……ちょっと、私達も疲れていて」
「そ……そうそう! ちょっと疲れてたから、ステファンのことすっかり忘れ――」
「じゃなくて! 忘れていた訳じゃないのよ! ただちょっと……疲れていたの!」
似たような言い訳ばかり繰り返すアイリーン、ウィルド、エミリア。
ステファンは彼らを順々に一瞥した後、フィリップの所で視線を止めた。小さな弟は、少しだけ頼もしくなった顔で、へにゃりと笑った。その仕草が何とも懐かしくて嬉しくて。
ステファンは途端にうるうると目を潤ませ、弟に抱き着いた。
何だかよく分からないが、ついに感極まったらしい。
「もう……もう、いいですよ。フィリップに免じて、今回のことは水に流します」
「……っ!」
下手なことを言ってステファンを怒らせるのは得策ではないので、子爵家の面々は必死になって首を縦に振った。
「兄様……心配かけて、ごめんなさい」
「いいんだ……。元気なフィリップの姿を見られただけで、僕は嬉しいから」
再び彼の目元には涙が浮かぶ。アイリーンも再び感極まって来て、うんうんと首を振った。
「そうよね……! 今はフィリップが元気にいてくれるだけでいいわよね!」
「調子に乗らないでください」
瞬時にステファンの絶対零度の視線が向く。アイリーンは固まった。
「何でしたっけ……。姉上呼びは堅苦しい、でしたっけ」
その言葉に、アイリーンは再び戦慄した。
「聞いてたの……!?」
「聞こえて来たんですよ。あと、敬語も嫌だって言ってましたね」
ステファンは黒い笑みを浮かべたのち、ゆっくりと口を動かした。
「姉さん」
「――っ!」
歓喜と困惑がない交ぜになったような、そんな複雑な感情にアイリーンは襲われた。しかし深くものを思考する暇もなく、ステファンは続ける。
「今回の事件について、僕はいろいろと姉さんに言いたいことがある。家に帰ったら覚悟しておいて」
「す、ステファン……? どうしちゃったの?」
「なに、姉さんがこうしろって言ったんじゃないか。さっきからいちいちうるさいよ」
「ちょっ、ステファンが別人なんだけど……!? 何だか反抗期みたいになってるんだけど!?」
「そういうの止めて。もうそんな歳じゃないから。前から言おうと思ってたけど、過干渉すぎる」
「ほっ、本当にこめんなさいステファン! だから元に戻して、私は前のままの方が良い!」
「うるさいな、自分から言い出したことには責任もちなよ。堅苦しいの嫌なんでしょ。何て我儘な人だ」
「ステファンー! ごめんなさい、もう言わないから、姉上でも敬語でも私は何でもいいから、だから元に戻ってー!」
「姉御……もう行きましょう」
つい先ほどまで楽しそうに傍観していたエミリアだったが、もう日も落ちてきた。この分では、子爵家につくのは夜になってしまうだろう。
「だって、だってステファンが――」
「……兄様、もうその辺りにしておいたら? 姉様が可哀想だよ」
「うん、そうだね。このくらいにしておこうかな」
「相手がフィリップだと全然態度が違うのね!」
「当たり前でしょう。姉上とフィリップとでは、天と地の差があります」
「何かしら……貶されているはずなのに、ステファンが元に戻ってくれたことが何よりも嬉しい……」
「はいはーい、茶番もそこまでにしてね。埒が明かないから」
「……本当に茶番だな」
オズウェルはぽつりと呟く。仮にもここはクラーク公爵の邸宅の庭先である。こんな所で一体自分たちは何をやっているのか。
「何よ! 茶番って失礼ね! こっちは真剣に悩んでたんだから――」
「はいはーい、怒りを鎮めて鎮めて。この調子じゃ家に帰れないから」
珍しくウィルドと意見が合うな。
オズウェルは空を見上げてそう思った。
この調子では、家に帰れるのは、ひょっとしたら深夜を過ぎるかもしれない――。