第一話 令嬢の利

01:二人の行く先


 肌寒い風が頬を撫でる。点滅する街灯が石畳を照らし出す。
 そんな人気のない通りを、年端もいかない少女と少年が歩いていた。二人が着ているものは、一見して上等と分かる代物ではあるが、あちこちにほつれが見られた。その上着ている当人たちの頬はこけ、目は虚ろ。様相が貴族のそれであっても、彼らの外見はとてもそうには見えなかった。

「おねえちゃん」
 歩き疲れた少年は、前を行く姉に声をかけた。しかし姉は振り返らない。

「お、ねえちゃ――」
 ついに少年は泣き出した。青い瞳ははうるうると涙に埋もれ、自分ではどうにもならないしゃっくりが出てくる。ひっくひっくと不定期に聞こえてくるその音に、少女はついに我慢できなくなった。

「うるさいっ! 泣くんじゃないの!」
 自分だって泣きたい気分の彼女にとって、彼の泣き声はひどく耳障りだった。

「ご……ごめんなさっ……」
 少年はすぐに謝ろうとしたが、その先の言葉はしゃっくりで掻き消えた。これ以上姉の機嫌を損ねないよう、彼は両手で自分の口を押える。

「だからついてくるなって言ったのに……!」
 そんな弟の健気な行動に目もくれず、再び少女は歩き出した。  

 二人は知らず知らずのうちに大通りへと迷い込んでいた。二人の横を、皆楽しそうに嬉しそうに通り過ぎていくが、痩せこけた二人の子供を気に留める者はいなかった。ただ黙って通りすぎる。まるで道端の石ころのように。彼らを気に止める者は、誰一人としていなかった。

 少女はほうっと息を吐いた。白い吐息が一瞬滞留し、霧散していく。
 とっくの昔に気付いていたはずだった。かつてのように、お金も権力も持っていない子供には誰も興味がない。そんなことは分かっていたのに。

「ねえ」
 気がつけば、少女は口を開いていた。周囲の楽しげな人たちに耐え切れなかったのだ。周りが楽しそうであればあるほど、お前は寂しい奴なのだと、独りぼっちなのだと見下されているようで、我慢ならなかった。

「ねえったら……!」
 少女はついに怒ったように振り返った。いつまで経っても返事をしない弟に腹が立ってのことだった。――しかし、そこに弟の姿はなかった。

「ちょ……どこに行ったのよ!」
 もしかしたら、あの人ごみの中はぐれてしまったのかもしれない。まだ小さい弟が、あの大勢の人々を押しのけてまで自分の後をついて来られるなどと、よく考えてみれば無理に決まっている。

 少女は唇を噛んだ。

「な……何よ、勝手に迷子になんかなって! 本当、いつもいつもわたしに迷惑ばっかりかけて!!」
 泣きたくないのに、涙が溢れてくる。もう疲れ果ててしまったのに、怒りが口をついて出る。

「何よ……何よ何よ!」
 独りでに少女は走り出した。奇妙な者を見る目で、周囲の人々は彼女を避けるように歩く。何もかもに腹が立った。

「おっと」
 曲がり角から突然姿を現した男に、少女は勢いよくぶつかった。そのまま体勢を崩し、冷たい煉瓦道に転がる。

「悪いね。大丈夫かい」
 上から声が降ってきた。しかし少女は首を横に振る。

「どうかしたのか?」
 膝を折り、少女と目を合わせながら男は尋ねてきた。自分を気にかけてくれる人がいたことに、少女は僅かながら安堵の吐息を漏らした。この人は自分を助けてくれそうだと。

 子供って楽よね。
 どこか、少女の奥で呟くものがいた。

 泣けば誰かが助けてくれる。本当、楽。
 しかし同時に少女は思う。

 騙されるな。何度騙されたら気が済むのよ、わたしは――。

「お腹、空いたの」
 気が付けば、少女はそう告げていた。彼女の中の忠告に反する行為だった。だが、それも仕方がない。彼女はいつもそう暮らしていたのだから。

 いつも誰かが傍にいた。少女が泣けば玩具を用意してくれたし、ご飯も出してくれる。それが彼女の生き方だった。

「そうかそうか」
 男はゆっくりと頷く。

「なら俺がたらふく食わせてやろう。一緒においで」
「……いいの?」

 しかし、あまりに簡単に行き過ぎて、少女は思わず聞き返した。

 子供が泣けば、確かに誰かが助けてくれる。しかし、目の前の男は赤の他人だ。にもかかわらず、無条件で自分に手を差し伸べるというのは、やはりどこか不安が残った。

「気にすることなんかないさ。名前は?」
「――アイリーン」
「そうかそうか。良い名だ」
「ありがとう」

 寒さですっかり頬が赤くなった少女は、ゆっくりと微笑んだ。しかしすぐに思い出す。自分と同じように腹を空かせていた少年の存在に。

「――弟が」
 気づいたら、口をついて出ていた。

「弟がいるの。あの、もし良かったら……」
「弟か。よし分かった。後で探そう」

 男はすぐに頷き、柔和な笑みを浮かべた。少女はホッと息をつく。

「本当?」
「ああ、君が一緒に来てくれたら、後で弟にもたらふく食わせてやる。だからおいで」
「分かったわ」
「いい子だ」

 男は身を翻して歩き出した。戸惑いながら、少女も歩き出す。

 男が入ったのは、一軒の宿屋だった。中は多くの人でごった返していて、酒の臭いが充満していた。夕餉時の峠を越すまでは、座る席などそう簡単に確保できないだろう。

「料理は部屋に運んでくれ」
 男もそう思ったのか、店の主人にぶっきらぼうに伝えた。主人は軽く頷き、チラッと少女に目を向ける。その視線の意味が分からず、彼女はきょとんとしたが、深く考える間もなく、その視線は外された。

「部屋に行くぞ」
 男は言葉少なに歩き始める。抵抗することもなく、大人しく少女はついて行った。

 部屋の中には暖炉があり、とても暖かかった。少女はかじかんだ両手を吐息と炎とで温める。男は外套を椅子に掛け、再び扉を開けた。

「席に座っていなさい。じきに料理も来る」
「……ええ」

 少女は頷いたが、男が出て行った後も、椅子に座ることはなかった。
 何となく、そんな気分ではなかった。

 弟はどこだろうと、何の気なしに窓に近寄って見る。カーテンを開け、冷たいガラスの扉を開ければ、部屋の中に一気に身を切るような冷気が入ってきた。少女は身震いしながらも外を見つめた。

「…………」
 窓の下は、相変わらず人通りの多い煉瓦道が続いていた。忙しなく歩く人々の中に、弟の姿はない。
 名前を、呼んでみようか。

 ふと少女はそう思った。だが、どうせこんな人ごみの中だ、呼んだとて聞こえないだろうとすぐに諦めた。

「――おねえちゃん」
 だが、そんな彼女の耳に、小さな声が入ってきた。

 少女はパッと身を起こし、食い入るように下を眺める。暗いコートばかりの人ごみを急く思いで見つめてみれば、不意に金髪が目に付く。今にも人ごみに埋もれそうになっているその姿が。
 少女はすぐに部屋を飛び出した。焦る思いで階段を下りてみれば、またもやムッとした酒の臭いが鼻につく。

 あの人に声だけでもかけるべきだろうか。
 そんな義務感を抱き、少女は目つきを鋭くして先ほどの男を探した。急がなければ、今にでも弟がどこかに行ってしまいそうな気がして不安だった。

「ああ。今どきちょろいガキもいたもんだぜ。何の疑いもなくついてきた」
 気が急って、感覚が鋭くなっている少女の耳に、野太い声が入ってきた。

「貴族のガキか。高く売れるだろうな」
「それだけじゃないぜ、近くに弟もいるらしい」
「へえ、十分な収穫だな。だが、足はつかないのか?」
「安心しろ。見たところ、親と喧嘩して家出した口だろ。捜索願は出されてるかもしれんが、今夜のうちに街を出れば足はつかない」

 意外なほどに、少女は落ち着いていた。

 信じていた人に裏切られた。ああ、なぜ自分は同じ過ちを二度も繰り返すのだろう。
 表情を無くしたまま、一歩後ずさる。こうしている暇はない。今は弟を探さなければならないのに。

「おいっ、あぶねえだろうが!」
「――っ!」

 給仕をしていたらしい男が耳元で叫ぶ。少女は何が何だか分からずに唖然と彼を見つめた。チッと舌打ちして彼は去っていくが、少女が再び顔を元に戻すと、二人の男と目が合った。先ほど立ち話をしていた二人――わたしを誘拐しようとしていた男たち。

 少女は咄嗟に身を翻して走り出した。

「待てっ! このガキ!」
 後ろからがなり声が追いかけてくる。少女は小柄な体を活かして、人ごみを縫うように駆けた。やっとのことで宿の外に飛び出すと、迷うことなく右へ走った。窓から見た時、弟がそちらへ向かって歩いていたからだ。

 喧噪の中、一際大きな男の声が響いていた。まだ宿屋内でもがいている様子が聞こえてくるが、安心するにはまだ早かった。大通りにはまだまだ越えなければならない人の山がある。楽しそうに会話する友人、甘い雰囲気を醸し出す恋人。少女の周りにいるその誰もが、自分とは違う存在なのだという事実を突きつけられているようで。

 少女は、縺れる足を必死に動かして路地裏に身を滑り込ませた。これ以上、自分を惨めに感じたくなかった。あの幸せだった日々を思い出したくなかった。

「糞ガキ!! どこ行きやがった!!」
 遠くからあの男の怒鳴り声が響いてくる。怖くなって少女はギュッと自分の身を抱き締める。

 あれだけ騒いでいる男がいるのに、売られそうになっている子供がいるのに、どうして誰も助けてくれないんだろう。いや、そう思うこともおこがましい。所詮は皆赤の他人なのだから。誰も助けてくれる者がいないからこそ、一人でやって行かないといけないのに。

 静かな場所だからか、はたまた周囲の全ての音に敏感になっているせいか、ちょっとした小さな音にも怯えた。ネズミがゴミを漁る音、カラスの鳴き声、自分の吐息さえも。

 どれだけ時間が経ったか分からない。気づけば、どこからかザッザッと足を引きずる音がした。それはだんだんこちらに近寄ってくる。

「お、おね……ちゃん」
 僅かに顔を上げると、小さな靴が目の前にあった。泥だらけの、小さな靴。ふっと顔を上げる。今にも泣き出しそうな、弟の姿があった。しかし少女と目が合うと、本当に嬉しそうにふわっと笑った。

「良かった……」
「な、なんで」

 少年はくしゃっと顔を顰めると、力いっぱい姉に飛び込んだ。すぐに彼の口からしゃっくりが漏れる。

「ご……」
 声が、震える。

「ごめんね!」
 少女は小さな体を抱き締めした。

「ごめんね、ステファン……」
「おねえちゃん……」

 喧騒から離れたその場所は、静かで、孤独で、ただ二人分のしゃっくりだけが響いていた。しかし互いに身を寄せ合った場所だけは、とても温かかった。