なぜその指輪を嵌めたのか?

 そう問われたとして、答えは一つだ。

 ――この指輪を嵌めてはいけない。

 そう書かれていたからだ。








「おほほほ! 何てお間抜けなのかしら、レスター! こんな低劣な罠にはまるなんて、あなたくらいなものよ!」
「くっ、ルイーザ!」

 レスターが振り返ると、そこには予想通りルイーザがいた。長い黒髪を後ろで一つにまとめたその様相は至って地味だ。しかし、その瞳には隠しきれない野望が爛々と輝いている。

「これを見なさい」

 気持ち悪いくらい悦に入った笑みで、ルイーザは右手を掲げた。その薬指には、怪しい銀の指輪が鈍く光っていた。

「これが何かお分かり? これはね、相手を思うがままにできる指輪よ」

 レスターが訝しげな顔をすると、ルイーザは一層嬉しそうに口角を上げる。

「まだ自分の状況が分かっていないようね。じゃあやってみせてあげる。――私の前に跪きなさい」

 何を馬鹿なことを、と思う反面、レスターの身体は、自分の意志とは無関係に動き出した。
 両膝をつき、前屈みになり。
 レスターは信じられないと言った顔でルイーザを見上げた。

「おーっほほ! なんて無様なのかしら! あなたの今の姿を皆に見せてあげたいわ!」

 高笑いを耳に、ようやくレスターも事態を把握し始めていた。
 以前魔法具の授業で聞いたことはあったのだ。相手に言うことを聞かせられる指輪がある、と。実はこの学園の倉庫にもあるんだが、というのを面白半分で聞いていたが、まさか本当にルイーザが見つけ出すとは。

「ねえ今どんな気持ち? どんな気持ちよー?」
「腸が煮えくりかえりそうだ」

 レスターは吐き捨てるようにして言った。

「地面に這いつくばらせてやりたいくらい」
「――はうっ!」

 その瞬間、ルイーザが視界から消えた。ツッと視線を下に向けると、地面にうつ伏せに倒れているルイーザが。
 なにが何だか分からず、レスターは目を白黒させた。

「おい」
「い、痛い……」
「何やってんだ、馬鹿だろ。急に転ぶなんて。さっさと起き上がれよ――」

 レスターの声と共に、ルイーザはまるで機械仕掛けの人形のようにパタンと起き上がった。

「…………」
「…………」

 沈黙が辺りを支配する。
 サーッと血の気を失っていくルイーザ、それとは対照的に、二イッと口角が上がっていくレスター。

「お間抜けなのはどっちだよ」
「…………」
「もしかしてこれ、互いに言うことを聞かせられる指輪、なんじゃねえの」
「…………」

 先ほどとは違い、静かになったのはほんの一瞬だった。次の瞬間には、怒涛のごとく言い争いが展開された。

「転べ!」
「――痛っ、転べ!」
「うっ、転べ!」
「きゃっ、自分で頭を叩け!」
「くそ! タンスの角に足をぶつけろ!」
「ううっ、壁を殴れ!」

 なんともまあ醜い争いだった。誰かが言った低劣、という言葉がまさに当てはまる戦い。程度が低く、幼稚で、くだらない。
 しばらくして冷静になりつつあった二人は、ようやくそのことに思い至った。自分たち、何してるんだろう、と。本来なら、もっと有意義なことに使えるであろうこの魔法具を、なぜこんなくだらないことにしか使えないのか、と。

「――自分の想像力に限界を感じる」
「私も」

 今となっては、己の貧困な想像力が恨めしい。
 レスターとルイーザは考えた。目先の痛みではなく、もっと相手を苦しめられる苦痛はないものかと。相手をぎゃふんと言わせられるような、恥辱と苦痛に満ちた命令――。

「良いことを思いついた」

 不意にレスターがポツリと呟いた。

「何をよ」
「お前が一番屈辱を感じるであろう命令」

 ルイーザは一瞬怯んだ。どんな命令だろうと興味を惹かれないわけではなかったが、意地の悪いレスターの表情から、おそらくとんでもなく嫌な命令なのだろうことは容易に想像がついた。だからこそ、怖じ気づいた様は見せられない。
 ルイーザはキッと眦を吊り上げ、レスターを睨んだ。

「やれるものならやってみなさいよ!」
「俺のことを好きになれ」
「なっ――」

 虚を突く命令に、ルイーザは瞬きを繰り返した。

「何言って――」
「じわじわと、だんだん俺のこと以外に何も考えられなくなれ。反発する心とは裏腹に、俺のことをどんどん好きになっていけ」
「なっ、あっ」

 このままではいけない。
 ルイーザの中で警鐘が鳴らされた。そして、自分でも分からないうちに、彼女の口から飛び出してきたのは。

「私のこと好きになれ!」
「はっ!? 真似すんなよ!」
「あなたが卑怯なことするからでしょ!? 私のことが頭から離れなくなるように!」
「くっ!」

 新たな命令がなされ、両者ともに睨み合った。一分の隙も許されなかった。今までは物理的な命令だったのに、今度は精神的な命令が下されたのだ。こうしている間にも、目に見えぬ変化として、自分の中で何かが変わっていっている――。

「覚えてろよっ!」

 レスターは、一時この場を退却することにした。考えれば考えるほど良い案が浮かばないのは、今が切羽詰まった状況だからだ。一時退却し、冷静になった頭で考えてみれば、もっと良い案、命令が浮かぶはずだ。
 そして入り口に向かったレスターだったが、そう易々とルイーザが見逃すはずなかった。

「転べ!」
「うっ!」

 咄嗟にルイーザの口から飛び出した命令により、レスターはその場にすてんと転がった。そんな彼の横を、嬉しそうにルイーザが駆けていく。

「お生憎様! 私よりも先に出ようだなんて――」
「転べ!」
「きゃっ」

 勢い余って、ルイーザは一メートルも滑って転んだ。生理的な涙が目尻に浮かぶ。

「転べ!」
「うっ! 転べ!」
「痛っ、転べ!」
「転べ!」
「転べー!!」

 そんな醜い言い合いが繰り返された結果、午後の授業には二人揃って遅れた。


*****


 それから数日が流れた。レスターとルイーザの命令のし合いは、水面下で激しい広がりを見せた。字を間違えろだの、先生に当てられろだの、相変わらず想像力は貧困だった。ただ、命令は相手の耳に入るように言わなければいけないので、そこは二人が隣の席同士ということが功を奏した。
 とはいえ、誰にも気づかれないように相手に命令をするのはなかなかに刺激的だった。衆目の場で恥をかかすのも良し、人知れず馬鹿なことをやらせるのも良し、冷静になってみて考え出した命令の数々は、互いに全て実行に移した。しかし、その反動というか、当然のことというか、レスターとルイーザは、やがてどんなときも相手のことが頭から離れなくなった。いつか下されたのことが頭から離れなくなるように! という命令通りに。
 次はどんな命令をしよう、相手は何を命令してくるだろう。
 そういうことで頭を悩ませるのだから、自然といつも相手のことまで考えが及ぶのは、半ば当然のことだった。
 ――ルイーザの奴、たくさん転びすぎてアザができてたじゃないか。
 ――今日のレスター、指を怪我して文字を書きづらそうだったわね。
 指輪の力でレスターを支配しようとしたルイーザ、ルイーザに屈辱を与えるため、自分に惚れさせようとしたレスター。
 どちらも卑怯ではある。が、根は素直なのだ。若干の申し訳なさと共に、多少気を遣いはする。
 ルイーザのアザに気づいてからは、もうレスターは転べなんて命令を下さなくなったし、ルイーザはルイーザで、字の間違いや、授業中先生に当てられろ、なんて命令はしなくなった。
 レスター、ルイーザ共に、勘が鈍いわけではない。
 やがて感じる違和感に、二人は聞かずにはいられなかった。

「どうして最近転べっていう命令をしないの?」

 ――私が転べって叫べば、いつもはそれに対抗するように転べって言うくせに。

「同情したんだよ。ただでさえお前は色気の欠片もないのに、膝が青あざだらけなんて可哀想だろ?」

 ――あ、あれ、レスターって、意外と優しいとこある……?
「お前こそなんで最近授業中は命令してこないんだよ。まさか、俺の怪我に気を遣ってじゃないだろ?」

 ――まさか、あのルイーザに限ってそんなことあるわけがない。

「私もレスターに同情したのよ。その指じゃ板書もしづらいでしょ」
「元はといえばこの怪我はお前のせいだろ。壁を殴れなんて無情な命令するから」
「だからちょっとは申し訳なく思ってるって言ったでしょ!? もうこの話は終わり!」

 ――なんだよ、今日はちょっと素直じゃん。いつもはツンツンしてるくせに。
 そして互いに感じる、妙な胸の高鳴り。
 いつもとは違う表情、言動を見せる相手に、なんとなく高揚した気分になる――。
 そんなわけない!
 二人は慌ててかぶりを振り、レスターは頭を抱え、ルイーザは机に顔を伏せた。
 あいつのことが気になるなんて、そんなことある訳がない!
 レスターは横目でチラリとルイーザを見る。
 長い黒髪だけは綺麗だな。いつもまとめてるけど、下ろしたらどんな風になるんだろう。
 一方で、ルイーザも頭の中でレスターのことを考える。
 背は低いけど、ひ弱なわけじゃない。それに、時々見せる笑顔が意外と可愛かったりするのよね。

「…………」

 そしてまたまた、相手のことを考えていることに気づき、一人もだえるレスターとルイーザ。そんな二人を、少し離れた場所から眺めている者が一人。

「――あいつら、馬鹿なのか?」

 教室の端で二人だけの空間を作り出しているレスターとルイーザを、教師スタンリーは、教壇で呆れていた。彼は、この事態に気づいていた。倉庫から二つの指輪が持ち出され、そしてくだらない命令のし合いが繰り広げられていることに。
 倉庫にあった、映像を記録する水晶から、事の次第は把握していた。
 一歩間違えれば犯罪にも使えてしまう指輪。
 だからこそスタンリーは、すぐに指輪を取り上げようと思っていた。しかし、よくよく観察してみれば、二人の少年少女がやっていることは、なんとも幼稚でくだらない命令ばかり。実技と筆記において、学年の首席を争っている二人とは思えない低レベルさである。
 その中でも、一番信じられなかったのが、『のことを好きになれ』という命令。
 物理だけでなく、精神的にも相手に屈辱を与えようとこんな命令を考え出したのだろう。だが、残念ながら、あの指輪は人間の精神面に対しては全く作用しない。好きになれ、嫌いになれとと命令しても、相手には何の影響もないのだ。
 そのことには全く気づかずに、特殊な状況下で、なんとなく相手のことが気になっている様子の二人。レスターとルイーザは、自分たちで作り出した罠に、自ら飛び込んでいったのだ。

「単純というか、純粋というか――いや、やっぱりただの馬鹿なのか」

 とはいえ、スタンリーとしては有り難いことだった。日頃から、レスターとルイーザの仲の悪さには辟易していた。顔を合わせれば、状況も弁えず口論したり、競い合ったり。しまいには、魔法を使っての喧嘩にまで発展したことすらある。
 そんな二人が、何の因果か惚れ合ったと。

「大変結構なことじゃないか」

 スタンリーは一人満足そうに頷いた。
 彼はもう、全てを明かすつもりはなかった。優秀な生徒でもあり、問題児でもあった生徒二人が、良い仲になりそうなのだ、壮年の独り身が、わざわざ口を出す必要もない。
 今のところ二人には、指輪の命令がどこまで作用するのか試してみようという気配はない。ならば、後は頃合いを見計らって指輪を取り上げるのみ。指輪の力を本物だと疑いもしない二人ならば、きっとこれからもその命令は持続すると信じ込むはずだ。
 割れ鍋に綴じ蓋という言葉があるように、今となってみれば、確かに二人はお似合いなような気もしなくはない……だろう。
 スタンリーは無理矢理そう思うことにして、まだ青臭い二人の未来からそっと目を逸らした。




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