フランシスと叔母は、男性の趣味が合わなかった。
叔母から紹介されるのは、男気溢れる男性ばかり。
そんなとき彼女は思いつく。ーーこうなったら、
扇を使って、私好みの男性を見つけるしかない、と。
社交界は、端から見ればロマンス溢れるキラキラとした世界だろう。貴族の若い男女が唯一交流の持てる場だし、豪奢なドレスを身に纏い、艶やかに光る宝石を身につけ、様々な異性とダンスを踊る。
そう、社交界は、端から見れば、こんな印象の場だった。だが、実際に自分がいざ飛び込んでみれば分かる。特にデビュタントを終えたばかりの若い淑女なんか、己の側には常に母親か既婚の親戚女性のお目付役がいて、異性と自由に話なんかさせてもらえない。彼女たちに常に所作が正しいか、言動は場に合ったものかなど監視され、家に帰る途中の馬車の中では、耳が痛くなるほどお説教をされるのだ。
社交界の場で、運良く懇意な男性ができたとしても、彼と共に二人きりになれるわけがなかった。側にはもちろんお目付役がいて、貞操を失うかもしれない危機を見逃すわけがないし、恋人と触れあうことすらも、決して許可はされないのだ。
恋人と甘い一時を過ごしたのに、厳しいお目付役がそうさせてくれない。
そんなとき、扇言葉という便利なジェスチャーがあった。
かつては涼を得るためや、醜悪な臭いを忌避するために用いられた扇だが、それはやがて、女性のための優雅な装身具に取って代わった。今では、女性があからさまに扇で涼を得るのは品がないとされている。しかしそれも仕方のないことだろう。重要なファッションの一つとされる扇は、扇面には花や植物、天使などが刺繍され、スパンコールや金箔で縁取られたりもする。親骨や中骨は、細かな浮き彫りや透かし彫りが施された象牙でできていて、近くでじっくりと観察する機会があれば、思わずため息が漏れるほどの仕上がりとなっている。
たかが扇、されど扇。
女性のファッションの一つとして、なくてはならない存在の扇は、あくまで装飾品としての扇であって、道具ではないのだ。
しかし、時代の変化と共に、女性の右手を独り占めするだけだった扇が、とある任務を担うこととなった。思うように異性と話せない女性が、扇を使って、男性に暗号を送る――これこそが、扇言葉である。
目は口ほどにならぬ、扇は口ほどにものを言うという通り、社交界に流通している扇言葉は、山ほどあった。簡単な肯定や否定のみならず、私は結婚している、私は他の人が好きだ、私のことが好きですか、待っていてください、あなたが好きですなどなど、扇言葉さえ習得していれば、一通りの色恋は楽しめるのではないかと言われるほど、扇言葉は恋愛関係のものが多い――というより、恋愛関係のものしかない。一時は扇言葉に関する教本が山のように出版された。世の中の紳士淑女はかつて、血眼になってそれを読みあさったものだ。
だが、昨今その文化は廃れてきた。扇言葉は、秘密の暗号だから良いのであって、皆が皆、当たり前のようにその言語を理解していれば、暗号としての意味をなさない。本人はこっそり扇言葉を使っているつもりでも、今宵は誰それがあの人を誘っているのねと、周りからしてみれば、周知の事実である。
そんなこともあって、扇言葉は急速に消えつつあった。女性としては、ロマンチックな文化だと、未だ躍起になって暗記する者もいたのだが、しかし、彼女たちのそんな健気な思いが報われることはほとんどなかった。何せ、扇言葉には必要不可欠な相手の存在――男性側が、時代の変化と共に扇言葉を学ばない者が増えていったのだ。折角女性が勇気を振り絞ってジェスチャーで合図をしてみても、顔が痒いんですかと見当違いな言葉が返ってくるばかり。
これでは、女性側も扇言葉を実践するどころか、習う気力もなくなるというもの。
そういう経緯もあって、扇言葉は今やもう風前の灯火。面白半分で学ぶことはあっても、それを実践する気概と勇気のあるものなどほとんどいない。
――だが、ここに一人。
社交界に憧れ、かつ年相応の純情な乙女心を持った者がいた。彼女の名はフランシス。デビュタントは昨年だった。そろそろ社交界にも慣れ、ダンスだって、男性の靴を一回も踏まずに曲を終えられるようになってきた今日この頃。さて、そろそろ将来のため、結婚する男性を見聞したいという心境なのだが。
しかし彼女、不幸なことに、お目付役の女性と反りが合わなかった。
未婚の若い女性には、必ずお目つけ役の女性がつくものだ。母親だったり、既婚の親戚女性だったり。フランシスの場合は、母方の叔母だった。昔から家に招かれたり、一緒に買い物をしたりと、仲は悪くない。むしろ、良い方だろう。だが、何というか……男性の趣味が合わない。
この人は素敵だろうと叔母がフランシスと引き合わせる男性は、ことごとくフランシスの趣味ではないのだ。フランシスはどちらかというと、大人しめの優しげな男性が好きなのだが、叔母は男気溢れる男性が趣味らしく、逞しく、粗野な男ばかりを連れてくる。
一度、フランシスは勇気を振り絞って、もっと優しい柔らかい雰囲気の男性がいいです、と直接伝えてみた。すると叔母は驚いて、すぐに頷いた。
『そういう毛色の違う男性もたまにはいいものよね。分かったわ、すぐに連れてきましょう!』
そうして叔母が連れてきたのは、色白でふくよかな、フランシスとは一回り以上も年の離れた男性だった。
――確かに、今までとは毛色が違いすぎた。年齢も、性格も……恰幅も。
だが、ここまで変わりすぎる必要はないだろう! せめて、年齢だけでも同じ年頃が良かったのに、何を勘違いしたのか叔母は、フランシスの言う「優しい」という部分を、「年上で甘えられる人」、更には「柔らかい雰囲気」を、「恰幅の良い」と解釈したらしい。違う。少なくともこれほどまでに年の離れた男性は、フランシスの守備範囲ではないのだ。
とはいえ、見た目が好みでなくとも、性格は合うかも知れない。
そう思って健気に男性に話しかけるフランシスだが、一回り以上年上では、話が合うわけもない。この男性のみならず、これまで引き合わされた男性もそうだった。フランシスのことはお構いなしに自分のことばかり話したり、成金自慢を始めたり。
――ああ、見た目も性格も私好みの男性はいないものかしら。
そうフランシスが一人ごちるのも、仕方がなかった。
けれども、お目付役である叔母を放って、一人で男性に話しかけるなんて言語道断だ。
この時代、女性から男性に不躾に話しかけることは無作法とされていたし、男性からもそうだ。必ずお目付役を通してしか、男女は交流を図れないのだ。
だが、そんなことフランシスも分かっていた。社交界のマナーを律儀に守りつつ、それでも自分好みの男性を見つけ出すためにフランシスができること――そうして彼女が必死に編み出した方法が、扇言葉だったのだ。
一昔前の淑女教本を読みあさった結果、フランシスは扇言葉なるものを見つけ出し、そして実践することを決心したのだ。
口には出さない扇言葉であれば、叔母に隠れて男性にサインを送ることができる。
扇言葉を習得した次の舞踏会にて、フランシスは意気揚々と好みの男性に暗号を送り続けた。叔母と話をする傍ら、影でコソコソと何度も。
……だが、悲しいことに。
今の時代、男性で扇言葉を理解している者など皆無だった。女性ですらほんの一握り程度なのだ、男性が使用するわけでもない扇を使ったジェスチャーなど、誰が覚えるというのか。
だが、そんなこととはつゆ知らず、フランシスは頑張った。ただ自分の容姿が相手の期待に添えなかっただけだろうとそう思い、ひたすら自分の好みな男性を見つければ、コソコソとジェスチャーを送る。
とはいえ、勘違いしないで欲しい。
フランシスとて、見境無しにジェスチャーを送っていたわけではない。たとえ見た目が好みであっても、話すまでは、相手の人柄は分からない。ただ、叔母と共にいたら、その見た目好みの人物ですら出会えないから、仕方なしに不特定多数の男性達に、まるで誘惑するかのように扇言葉を送るしかないのだ。
しかし、今日も今日とて一向に実らないフランシスの恋路。
このまま、叔母の勧める相手と結婚するしかないのか。
そう絶望するフランシスの前に引き合わされたのは、やはりムキムキ筋肉の男。褐色の肌で、白い歯が眩しい。だが好みではない。
見た目が好みでなくとも、性格ならあうかもしれない。だが、ムキムキな男は、どうにも怖くてならないのだ。威圧感があり、反射的に萎縮してしまうのだ。
フランシスは、目の前の男性――マクシムと穏やかに会話をしながらも、内心はビクビクしていた。背が高すぎて、一体どこを見て話せばいいのか分からないのだ。顔を見て話すのは緊張するし、胸板は男らしさが溢れていてこちらが赤面してしまう。
それでも何とか会話を続けていると、言葉が途切れた時を見計らって、マクシムが一旦前置きを入れた。
「すみません、少し失礼します」
そうして、その時丁度すぐ側を通りかかった男性に声をかける。
「ラングレー! 後でこの前の商談のことで話があるんだが、いいか? 急ぎなんだが」
「ああ、後で時間を取ろう」
呼び止められた男性――ラングレーは、ちょっと驚いたようだったが、すぐに笑みを浮かべる。叔母とフランシスに対しても律儀に頭を下げ、再び歩き出そうとしたところで、叔母がまあと高い声を上げた。
「素敵な男性ですこと。確か、バージェス伯爵家のご子息だったかしら?」
「ご挨拶が送れ、申し訳ありません。はい、ラングレー=バージェスと申します」
「まあ、やっぱりそうだったの。覚えてらっしゃらないだろうけど、あたくし、あなたがまだ小さい頃にお会いしたことがあったのよ。すっかり大きくなられて」
「それはそれは。何か粗相をしませんでしたか?」
「とんでもない! 幼い頃から礼儀正しくて、将来有望ねとあなたのお父様とお話ししていたものよ」
「嬉しいことをおっしゃいますね」
ラングレーは更に笑みを深くする。片頬にえくぼが刻まれ、元の雰囲気も相まって、更に柔和な空気が流れた。
「では、お邪魔をしてもいけませんので、私はこれで失礼します」
「ええ、近々またお話ししましょうね」
「はい、喜んで」
ラングレーは、フランシスにも微笑みかけ、そのまま去って行った。フランシスは、ぼうっと熱に浮かされたまま、彼の後ろ姿を見送る。
――彼だと思った。彼しかいないとも。
その後、フランシスはマクシムとダンスを踊り、三人は別れた。様々な異性が入り交じる中、社交界では、同じ相手と三度踊るのは無作法だと言われている。かといって、踊る相手がおらず、女性が壁の花になってしまうのも忌避されている。そのため、お目付役の女性は、パートナーが途切れないよう、踊る相手の選定と紹介に苦心するものなのだ。
フランシスは、自分の視線が、先ほどの男性――ラングレーにチラチラ向いてしまうことに気づいていた。彼が女性と話しているだけで、胸がチクリと痛むし、男性と笑い合っているだけでも、その微笑みに胸が熱くなる。
知らず知らず、フランシスの視線にも熱が入る。紹介も無しに女性が男性に話しかけてはいけないし、そんな勇気もない。叔母に頼めば紹介してくれるかもしれないが、ただ、今は見つめているだけでも幸せだったのだ。紹介してと叔母に頼むことすら忘れ、ただあの人を見ていたかった。
スッとラングレーの視線が移動する。己を見つめる熱視線にようやく気づいたのだろう。きょとんとしたように目が丸められる。
フランシスは、無意識のうちに動いていた。右手に持っていた扇の先を、指先でちょっと触れる。
『あなたと話したい』
ラングレーの動きが止まった気がした。フランシスは、もう一度ゆっくり同じ動作を繰り返した。
『あなたと話したい』
随分長い時間にも思えた。
ようやくフランシスが自分のしたことに気づいたのは、ラングレーがこちらに歩き出したのを目にしてからだ。
ビクッと肩を揺らし、フランシスは思わず叔母の背に隠れる。
――気のせいかしら、どうしてあの人はこっちに向かってくるの?
しかし、幸か不幸か、フランシスの思い過ごしではなかったようだ。ラングレーの足は叔母とフランシスの前で止まり、そして涼やかな声を響かせた。
「コーウェル夫人、先ほどぶりです」
「まあ、どうなさったの? もうお話しはよろしくて?」
「マクシムとは、舞踏会が終わった後に話すことになりました。このような場で仕事の話は不躾ですからね」
困ったように笑うと、ラングレーは次にフランシスに顔を向けた。その優しい視線に、フランシスはきゅうっと縮こまる。
「それはそうと、実は先ほどから気になっていたのですが、素敵なお嬢様ですね。ご紹介していただいても?」
「まあ、喜んで紹介させていただくわね。私の姪のフランシスでございます」
フランシスは、慌てて叔母の影から出ると、スカートの裾を広げ、腰を落とした。恥ずかしくて、顔は上げられないままだ。
「ご紹介にあずかりました、フランシス=ウェアリーと申します」
「フランシス、こちら、バージェス伯爵家のご子息のラングレー様よ」
「ラングレー=バージェスです。どうぞお見知りおきを」
柔和な笑みで見つめられ、フランシスは頬を赤くする。何か言おうと口をパクパクさせるが、結局言葉が出てくることはなく、そのままだんまりを決め込む。
ラングレーと叔母は、叔母と、思わず苦笑して顔を見合わせた。
「ごめんなさいね、この子、人見知りみたいで」
「とんでもありません。……ウェアリー嬢、ぜひ私と踊っていただけませんか?」
そうして軽く腰をかがめ、ラングレーは右手を差し出した。フランシスはおずおずとその手に自分の手を重ねる。
「……喜んで」
そのままラングレーは流れるように会場の中央へとフランシスを誘導した。空いている場所を見つけると、寄り添って二人は踊り始める。
現在流れている曲は、割合穏やかな曲なので、フランシスも安心して踊ることができるはずだった。――にもかかわらず、顔が、手が、身体が熱い。触れている手のひらから緊張が伝わってしまうのではないかと思えば思うほど、身体に力が入り、思うようにステップを踏めない。
何度かフランシスがラングレーの足を踏みそうになって、彼に助けられる。そんなことが何度かあった。しかし、それでもラングレーは呆れたり馬鹿にするようなことはなく、黙って手助けしてくれるのだ。
「勘違いじゃなければ良かったんだけど……僕は誘われたのかな?」
申し訳なさに縮こまっていたら、不意に上からそんな声が降ってきた。当然フランシスは慌てる。視線を彷徨わせた後、やがて観念したように小さく頷く。
「ご、ごめんなさい。はしたないことはよく分かっていたけれど、どうしてもあなたと話してみたくて」
そうして、言い訳するかのように付け加える。
「でも、扇言葉、知ってらしたのね。私、もう廃れているものと思っていたけれど」
「姉と妹がこういうの好きでね。僕も無理矢理覚えさせられたんだ。とはいえ、二人は積極的な方だから、扇言葉じゃなくても、グイグイ自分からいってるみたいだけど」
「二人もご兄妹がいらっしゃるのね」
「上と下に囲まれて大変だよ。買い物には付き合わされるわ、毎日愚痴を聞かされるわでもう散々」
肩をすくめるラングレーに、フランシスは思わず笑い声を立てた。
「でも、だからこそ、バージェス様の雰囲気は柔らかくいらっしゃるのね」
――そんな風にして、フランシスの夢のような一時は終わった。ダンスが終わり、少し言葉を交わしただけで、再び叔母がやってきて、次の相手を紹介される。名残惜しかったが、たった一度ダンスを踊っただけで、まさかラングレーを独り占めできるわけもない。また、相手もそんな風には思っていないだろう。
その後、舞踏会の続きは、何事もなく終わった。ラングレー以上に心惹かれる相手はいなかったし、気がつけば、彼を視線で追っている自分に気づくばかり。
このまま彼との接点がなくなれば、後悔するだろうことは分かっていた。でも、自分に何ができる?
ああ見えて、叔母はお喋りである。もしもフランシスが、ラングレーと懇意になりたいと話したが最後、ラングレーに直接、姪はあなたに気があるようでと言うに決まっている。
そう思うと、どうしても一歩が踏み出せないフランシスだった。
次の舞踏会は、一週間後だった。
前回の舞踏会より規模は小さいが、より親しい者たちで形成されたものだ。
さて、ここでもフランシスの結婚相手を探そうと叔母が鼻息荒く会場の中を歩き回る傍ら、そこでラングレーの姿を見つけたときのフランシスの心境は、言葉に言い尽くせない。
本当に心臓が飛び出るかと思ったのだ。実際、動揺のあまり扇を取り落としてしまった。
そして同時に思う。やはり彼と話がしたいし、踊りたいと。
扇を拾っている間に、ラングレーの姿は見失ってしまった。けれども、フランシスには自信があった。
たった一夜会っただけの人ではあるが、その姿形、声は、十二分に頭の中に思い描くことができている。後は、この群衆の中から探し出すだけ。
見つけ出せたら、もうこちらのものだ。
――熱い熱い視線を送る。
彼が気づくまで、彼がこちらに顔を向けるまで。
目が合う。
瞬間的に、フランシスの体内温度は急激に上がった。しかし今度こそは、熱に浮かされるままではなく、自分の意志で、扇と手を動かす。
『あなたと話したい』
無視されるかもしれない。もう興味はないと目をそらされるかもしれない。それでも、行動しないわけにはいかない。行動する以外、この身体の熱を発散させる方法を知らないから。
ラングレーは、ゆっくりとこちらに歩いてきた。真っ直ぐフランシスの方に、彼女を見つめながら。
*****
フランシスとラングレーは、そうして何度もダンスを重ねた。夜会に顔を出しても、時にラングレーの姿が見えないときもあった。そんなときは酷く落ち込み、フランシスはいつもよりずっと早く家に帰るなんてこともよくあった。一方で、ラングレーも参加していた日には、喜々として扇言葉を送り、共にダンスをするのだ。ダンスをしている間、フランシスはいつも夢心地だった。いろんなことを話した。好きなものや、興味のあること、趣味、家族、今まで旅行した場所のこと。
何度ダンスを踊っただろうか。その数は、今や片手では数え切れないほど。近頃は鈍い叔母も怪しんでいるほどだ。あなた、もしかしてバージェス様のことが好きなの、と。そう直接聞かれるくらいには、フランシスの中で熱い想いが滾っていた。自分でも、どうしようもできないくらい。
フランシスは、次の舞踏会の日、もしラングレーも参加していたら、想いを告げようと決心していた。そしてその当日、フランシスを後押しするかのように、ラングレーの姿はそこにあった。
高ぶる想いを胸に、フランシスは深呼吸する。いつも通りラングレーを見つめて、彼がこちらに顔を向けるのを待つ。
――目が合った。
ラングレーは、フランシスが動くよりも先に、こちらに向かって歩き出した。それは大変有り難いことだ。最近、彼はフランシスが誘わなくても、目が合えば、すぐ来てくれるようになっていた。――だからこそ、少し期待していたのかもしれない。
閉じた扇の先端で、己の頬を一撫で。
『あなたが好きです』
この溢れる想いを、どうすればよかったのか。
せめて直接伝えた方が良かったのかもしれない。でも、女性側から想いを伝えるなんて、はしたなくはないのか。
だって、どうしようもなかった。家に帰って、自室で想いを馳せているときならば、少なくとも冷静でいられた。でも、あの人を視界に入れてしまったらもう無理だ。止めることなんてできない――。
しかし、いくら待ってみても、反応はなかった。いつもなら、すぐににこやかにこちらに来てくれるのに、ラングレーは、驚いたような顔をした後、すぐに顔を逸らしてしまった。こちらに向かっていた足も、いつの間にか止まっている。
「…………」
反応くらい、してくれたっていいのに。
別に、想いに応えて欲しいとまでは思わない。確かに両思いになったらどれだけ幸せだろうとは思うが、そこまでの高望みはしない。
……でも、それでも、返事くらいは欲しかった。
思わず顔を背けるフランシス。ずっと静かな姪に気づいてか、叔母はのんびりと話しかけた。
「そういえば、今日はバージェス様いらっしゃらないわね」
いつもは勘の鈍い叔母ではあるが、今日は余計なことに気づいてしまった。
「いつもあちらから誘われていて申し訳ないわ。今日は私たちから行きましょう」
「お、叔母様……!」
余計なことはしないでほしい。そうきっぱり言えたらどれだけ良かったか。でもそんなことを直接言えるのなら、もとより苦労はしない。
叔母はフランシスの腕を掴みながら、ずんずんラングレーの元に行く。途中でこちらに気づいた様子を見せたラングレーだったが、心なしか、あえてこちらに背を向けているそぶりを見せた。フランシスは余計に傷つき、唇を震わせた。
「こんばんは、バージェス様。ご機嫌はいかがかしら?」
「えっ、あっ、こんばんは……コーウェル夫人」
ラングレーは、慌てて居住まいを正していた。その顔にはばつの悪い表情が浮かんでいたのを、フランシスは見逃さなかった。
「フランシスのダンスのお相手、バージェス様にお願いできないかしら? この子、まだパートナーが見つかっていないのよ」
「そ、れは……」
一蹴フランシスとラングレーの視線が交差する。フランシスはすぐに目をそらした。目の前で、彼に面倒だという表情をされるのだけは耐えられなかった
「――ええ、もちろん。実は、私もダンスの相手を探していましてね。もしウェアリー嬢がよろしければ、こちらこそダンスのお申し込みをさせていただきたく思います」
「……是非お願いいたします」
いやいやながらも、フランシスはそう答えるしかなかった。このよな場で、彼の低姿勢な文句を断れるものなど、いるわけがない。
二人は、手を取り合ってダンスを始めた。二人の間に流れる空気は、気まずいものだ。
「――まさか、あんなことを言われるなんて」
そうしてようやく口を開いたかと思えば、抑揚のないラングレーの声に、フランシスはつい縮こまる。
「……ごめんなさい」
「僕が何に怒っているか分かるかい?」
「迷惑、だったのよね。本当にごめんなさい。叔母にも言っておきます」
「違うよ」
僅かに嘆息して、ラングレーは真正面からフランシスを見た。
「君にはちゃんとした口があるのに、どうして直接言わないんだ」
「え……?」
「すぐに反応を返せなかったのは悪かった。だって、まさかあんな大事なこと、扇で言われるとは思ってもみなかったから」
言葉を失い、フランシスは黙り込む。
確かに彼の言うとおりだ。話せない状況だった以前ならまだしも、今はこうして自由にダンスができているというのに。
「それに、こういうことは男性から言うものでしょう?」
「えっ?」
思わせぶりなラングレーの言葉に、フランシスは思わず聞き返した。しかし、彼はもう何も言わなかった。
やがて曲が終わる。いつもなら、少し話をするだけで、叔母に連れて行かれてしまう。
でも今日は、これで終わってしまうのなんて嫌だった。折角勇気を振り絞ったのに――。
「あ、あの……」
「扇、ちょっと貸してくれない?」
フランシスが顔を上げれば、ラングレーの声に遮られる。彼女の返事も待たずに、ラングレーは扇を取り上げた。何をするのかと思えば、彼は閉じた扇の先端で、己の頬を一撫でした。そのジェスチャーが示すのは――。
「ずるいっ!」
咄嗟にフランシスは叫んでいた。高ぶった感情が迷子だった。純粋な喜びになるはずだった感情は、戸惑いへと変わる。きちんと言葉にしてくれなければ、彼のジェスチャーは、本気と取ることができない。
「く、口で言ってくれないと――」
「君だって扇で済まそうとしたでしょ? 自動自得だよ」
しかしそんなフランシスの思いは、無碍に捨て置かれる。
「え、えっ……」
意地悪な物言いに、思わずフランシスは固まった。
――怒らせてしまったのだろうか。確かに、元はといえば私が悪い。でも。
フランシスが悲壮な表情でおろおろしていれば、やがてラングレーは堪えきれない様子でぷっと噴き出した。呆気にとられるフランシスの前で、お腹を抱えて笑うラングレー。
「か、からかったの!?」
ようやくそのことに気づいたフランシスは怒って見せたが、もう遅い。
盛大に笑われてしまった後では、そんな威厳も形無しだ。
「ごめんごめん。でもさ、さっき言ったことは本当だから。僕だって、口で言って欲しいと思ったんだから」
「そ、れは……ごめんなさい」
ラングレーが扇言葉を理解できるからと言って、確かに調子に乗っていたのかもしれない。大切な言葉だからこそ、自分の口で言わないといけないのに。
思わず項垂れるフランシス。そんな彼女に、ラングレーは笑ってゆっくり顔を寄せた。咄嗟に反応できずにいると、ラングレーは彼女の耳元で何やら囁く。フランシスは、やがて真っ赤な顔になった。彼の一言は、フランシスの胸を幸せで満たすには充分なものだったのだ。
反射的に耳に手をやって、フランシスはラングレーを見上げた。彼は優しくフランシスを見つめて、一言。
「もう一度踊ろうか?」
「はい……!」
手を取り合って、二人はダンスを踊る群衆の中に飛び込んだ。先ほどのダンスと同じように、大した会話などない。でも、嫌われたのではないか、怒っているのではないか、そんな心配のいらないダンスは、とてもとても楽しかった。何より、そんな心配を覆す言葉を、直接もらったのだから!
フランシスは、幸せそうな顔で踊りながらも、腰元に下げた扇に感謝しかなかった。扇言葉がなければ、きっと勇気も出なかったことだろうから。だが、それでも、今後は扇言葉を卒業しようと思った。
相手を想う言葉は、直接言われた方が嬉しいと思うから。
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