「好きな人ができたんだ」
十年ほどの、片思いだっただろうか。
これほど近くにいながら報われない思い。
叶わないのなら、婚約など最初からしなければよかった――。
恋人たちの集う落ち着いたカフェ。過去何度もここへ来たからこそ、今日はここに来たくなかった。綺麗な思い出だけを残していたかった。
「すまない。婚約を破棄させてくれ」
沈黙が流れた。自分を落ち着かせるためにも、私は紅茶に口を付けた。
「――突然ですのね。どうして、と聞いてもよろしいかしら?」
私にとっては全く唐突などではなかった。なんとなくわかっていたことだった。いつの間にか、彼――レオナルド様は私に会いに来なくなっていた。以前から婚約者という建前で会いに来ていたことはわかっていたが、それでも一月とあけて来ないのは、今までになかった。真実を知ったのは、侍女と共にこのカフェへ来た時だった。違う女性と一緒にいるところを見つけた。
「好きな人ができたんだ」
その言葉は想像通りで。逆に笑いたくなった。
「その方はどのような方なんです?」
レオナルド様はちょっと驚いた風に私の顔を見て、でもすぐに頬を緩めた。そんな顔、見たことがなかった。
「一緒にいると、心が穏やかになるんだ。ちょっと抜けてるところも可愛い」
「そうですか」
一応まだ婚約者の前で惚気る彼に、わざと冷たい声で言い放ったが、それだけで気分を害する様子はない。彼らの間に、私の些細な抵抗は無駄なようだ。
「あなたのお父様には、もうお話になったの?」
「いや、まだこれからだ。両家には俺から話しておく」
彼の中ではもう決着がついているようだ。その瞳に、揺らぎはなかった。
「エミリー……、すまない」
「――エミリア、です。もうこれで私とあなたはもう何も関係がないのですから、気安く呼ばないでください」
ぴしゃりと言い放った。家族以外には許しはしなかったその愛称を、私は自ら封じた。
「……エミリア、本当に申し訳ない」
レオナルド様は深く深く頭を下げた。そんなもので、どうにかなる問題なのだろうか。この歳で婚約を破棄されたら、周りはどう思うだろうか。傷物だと、性格に難ありと思われるかもしれない。――女性側にとって、外聞が悪すぎることは想像に難くない。賢明な彼ならわかっていることだろう。それでも彼をここまで動かす衝動は、愛しい彼女への愛情故のものだろうか。
「じゃあ、私はもう行くよ。――本当に、すまなかった」
カラン、と扉の鈴を鳴らしながら、彼は私の前から去っていった。
――十年ほどの、片思いだっただろうか。これほど近くにいながら報われない想い。これほど近くにいながら彼の心を掴めなかった歯痒さ。
レオナルド様の姿がなくなってから、今になって緩々と涙腺が緩み始めた。私の弱さをこんなに簡単に見せることができたら、何かが変わっていたのだろうか。思えば、私はいつも強がっていたような気がする。年上の彼にふさわしいように、自分を律してきた。その毅然とした態度は、彼の目に好ましく映らなかったのだろうか。
ふと眼を外へやると、彼と楽しげな様子で笑う彼女らしい人。彼女が持つ穏やかなあの空気が、彼の心を射止めたのだろうか。
どんどん後ろ向きになる心を奮い立たせて、私は立ち上がった。幸せな思い出と共に全て崩れ去ったこの場所に、いつまでもいたくなかった。
徐に外へ出た私はどこへ行くともなしに、ぼんやりと歩いていた。しかし、それがいけなかったのだろうか。人の波に沿って歩いた先は、彼といつも行っていた噴水だった。あまり話が続かなかった私たちはいつもここへきて共に座るのだった。私はそんな沈黙も好きだったのだけれど、彼はそうでもなかったのかもしれない。
つられるように、私はその噴水に座った。そうしていて、彼に見つかったらどうしよう、との思いが一瞬過ぎった。彼に未練がましいなどと思われたくない。でもここを離れれるという考えに及ぶ前に、声をかけられた。
「誰かと思えば、エミリア様では?」
ここで現れるのか。今までの恨みつらみを込めて、眉を思いっきり顰めたいところだが、令嬢として、そんなわけにもいかない。私は楚々と微笑んだ。
「ごきげんよう、リナ様」
「ここで何をしていらしてるの? 婚約者の方はどうしたのかしら?」
その口元に浮かぶのは、一見穏やかな微笑みだが、私からしてみれば冷笑にしか見えない。
「――さあ、どうなのかしらね。私たち、婚約を解消したから、彼のことはわからないの」
彼女は一気に喜色満面になった。
「――まあ、そうなの? あなた達、仲睦まじかったから信じられないわね」
嫌味ですか。その顔に吐き捨てたくなった。
「でもねえ、そういえば先日、婚約者の方が可愛らしい方と楽しげに歩いていたのを見たことあるわ」
それをわざわざ言うところがあなたらしくって、笑える。
「ええ、知ってますわ、私もその場を偶然目撃したので。あまりにも彼が幸せそうなので、婚約解消したのです」
誰から、とは言わないでおく。せめてもの矜持だった。彼女は特に、昔から私に突っかかって来る人なので、ここで弱さを見せたくなかった。
しかしリナは、瞳にその胸の内をありありと映しながら攻撃をやめる気配を見せなかった。
「そういえば、婚約者殿の彼女、市井の出らしいですわね。パン屋で働いていると聞きましたわ。貴族と平民との恋物語、そう考えたら素敵だわ」
言葉と表情が合っていなくってよ。
きっと彼女のことだ、平民なんかと恋をするなんて、と蔑んでいることだろう。平民に婚約者を取られた私のことは尚更だ。
「そうね、素敵ね。私も親が決めた婚約者などではなくて、自ら恋をして家庭を作りたいものだわ」
「あら、それは確かに素敵ですけど、私たち貴族にはそんなこと無理ではなくて? 特に平民とでは」
先ほどの自分の言葉を忘れたのだろうか。いったいどの口が素敵、などとのたまっていたのか。
「でもよく彼のこと許せましたのね。私なら悔しくて、でも彼のことを忘れられなくて、思い出の場所めぐり、なんてことをしてしまいそうですわ」
この人はこんなことをして何がしたいのだろう。いつもリナは私にこうして突っかかって来る。いい加減飽きてはくれないだろうか。ただでさえ傷心なのだから、彼女に応戦する気は起きない。実際、私自身もなんと女々しいことか、と自分が情けなくなってくる。気分の赴くままに歩いたら、いつの間にかここに来ていた、なんて。
私がここまで彼を思うようになったのは、全て私のせいではない、と思う。彼にも、その一端はあるのだ。何より彼が、私に会いに来なければよかったのに。婚約などというものに縛られて会いに来てくれるから、いつの間にか心には彼がいた。私に気がないのなら、どうせこんな別れになるのなら、会いに来てほしくなかった。いつか私のことを見てくれるんじゃないかと、期待させないでほしかった。
――婚約など、叶わないのなら最初からしなければよかったのに。
「エミリア」
私はその声にハッと顔を上げた。目の前にはいつの間にか、見慣れた顔が現れた。
「――ロイ」
「悪かったな、待たせて。寒かっただろ」
そう言ってロイは自分のコートを私の方にかけた。突然の登場及び、いつもは絶対にやらないような行動に、私は目を白黒させた。
「あ、あなた、どなたかしら? エミリア様とお知り合いなんですの?」
彼の出現は、リナにとっても驚きだったようで、さすがの彼女も戸惑いを隠せていない。
「別に関係ないだろう」
素っ気ない返答に怒り、リナはそのまま矛先をわたしに向けた。
「エミリア様? 婚約者と別れたばかりなのに、このように他の男性とすぐに会うのは外聞がよろしくないのではありません?」
「あんたが考えてるような邪な気持ちはない」
ぶっきら棒に言うロイに、リナはどんどん怒りで顔を赤くした。
「邪ですって!? 失礼な人ね!」
「先を急ぐので失礼」
ロイ様は私の腕を取って無理やり立たせた。段々とリナの顔色が面白いことになってくる。
「私たちは今お話し中なんですけれど!? 勝手にエミリア様を連れて行かないでくださらない?」
「俺の方が先に約束していたんだが」
にっこりともせずにロイはそのまま歩き出した。後ろで何やらリナが騒いでいたが、彼は振り返りもしない。少しスカッとした。
「……ありがとう。正直、彼女をどうやり過ごそうか困ってた」
「別に。目の前に知り合いがいたから話しかけただけだ」
再びぶっきらぼうに言って、私の腕を放してくれた。リナに対するぶっきらぼうとは違い、その言葉の一つ一つに不器用な温かみを感じて、私は思わず微笑んだ。しかしそれも束の間、不意に紡がれたロイの問いに、すぐに顔をしかめた。
「……で、なんであんなところにいたんだ」
「――嫌な奴。リナみたいな質問しないでよ」
「別にそんなつもりはない。ただ、俺が考えてる答えと違う答えを聞きたかっただけだ」
「どういうこと?」
早口で言われて頭にあまり入ってこなかった。ロイはいつもそうだった。
「――なんでもない」
「またそうやって終わらせるの? なんて言ったのよ」
「だから何でもないって」
不機嫌そうに口を閉ざしたロイに、私は大人しく引き下がった。こうなってしまったら、彼はどうやっても口を開いてくれないから。随分長いこと彼とは親交があるが、こういうところはいつまで経っても変わらない。
「さっき聞こえたんだけど、婚約解消したって」
まだその追求は止めないのか。なんだか腹立たしくなってきた。
「ロイには関係ないでしょ」
もう放っておいてほしい。そんな気持ちを込めて不機嫌そうに返答した。それでもロイは顔色を変えない。自分だってありありと不機嫌な気持ちを込めるくせに、いざ自分がそれをやられたら気付かない鈍感男のようだ。
「気になったから。で?」
「――っ、はいはい! 私たちは婚約解消しました。これでいい?」
「なぜだ?」
私はいよいよふて腐れたようにそっぽを向いた。もうこれ以上答える気はさらさら無かった。
「なぜだ?」
「…………」
「なぜだ?」
「…………」
「なぜ――」
「あーもう! しつこい男は嫌われるよ!」
いよいよ耐えられなくなって、私はそのまま走り出した。どうせ、この場に留まっていてもいつかは白状させられるような気がする。ならばいっそ、この男を置いてきぼりにしてしまえばいいと考えた。逃げ切れるとは思っていなかったが。
「女性が走るなんてはしたないぞ」
「しつこい男から逃れるためには必要なことよ!」
いつの間にか隣を走ってる男に吐き捨て、更に速度を上げたが、いつまで経ってもその差は開かない。
あまり運動をしないので、早くも息切れをし始めたとき、広場に出た。人に紛れてロイを撒いてやろうかと思ったが、
すぐ目の前に、一番会いたくない人物を発見してしまい、思わず立ち止まった。
「エミリア? 急に立ち止まるなよ」
その声に反応して、すぐにロイの腕を取って裏路地に入った。そのまま、彼らをやり過ごそうとした。
「あいつ……」
レオナルド様と、その想い人の彼女は仲睦まじげに談笑していた。彼らに気づかれない代わりに、ロイに気づかれてしまった。
「なんであいつ、女といるんだよ。エミリアたち、婚約解消したばっかなんだろ」
私たちが言えたことじゃないのだけど、と言いたいのを堪えた。今はそんな元気もない。
「彼、隣のお嬢さんのことが好きなんですって。だから婚約を解消したの」
「は……、なんだよそれ」
ロイは憤りに拳を震わせていた。私の気持ちを代弁してくれているようで、今はその存在がただ嬉しかった。
「十年もの長い間の婚約期間だったんだよな。今更そんなのあるかよ」
「そうだね……、でももういいの。なんか、吹っ切れたっていうか」
どうしてロイがここまで怒ってくれるのか。初めて婚約者――レオナルド様があの女性と一緒にいる場面を見たとき、隣にいた侍女が怒ってくれた。今もロイが怒ってくれている。――私はつくづく幸せなんだと実感できた。
「エミリアはそれでいいのか」
いつになく真剣な瞳で見られる。そんな場面でないと分かっていても、つい苦笑をしてしまう。
「うん、いいの。あの人の心に私がいないのは分かってたことだもの。このまま結婚しても辛いだけだったのかも」
「――これから、どうするんだ」
「えっ――、どうするって言われても……。しばらくしてからまた、お父様が婚約者を見つけてくれると思うわ。一度婚約を破棄された身だから、そんなに簡単にいかないと思うけどね」
「そうか」
自然と沈黙に入った。誰が言うわけでもなく、私たちはそこを離れる。次第に喧噪から離れていった。
*****
「これ、返すわ。ありがとう」
リナといたときに肩にかけられたままの上着を、私はロイに手渡した。彼は黙ってそれを受け取る。
「なあ、もう行くのか」
「それはそうでしょう。家に着いちゃったんだもの。何か話でもあるの?」
[話……というか、エミリアに伝えたいことがある]
「手短にお願いね。誰かに見られたら、また変な噂が立ってしまうわ」
「――俺と付き合わないか」
「……え?」
今、なんだか告白のような台詞が聞こえたような……。いいえ、やっぱり気のせいよね。情熱的な想いを含むはずの告白が、こんなに簡単に――。
「あいつとは婚約解消したんだろう? 今はまだ気持ちの整理がつかないだろうが、俺とのことも考えてほしい」
「ちょっ……」
間違いではなかったみたいだ。
「なん……、急にどうしたのよ」
「エミリアにとっては急でも、俺はずっと前から考えていた。エミリアがあいつの婚約者だったから、どうしたって叶わないから諦めてたんだ」
「いや……、そんなの、え?」
本当にこれがロイ? いつもどこかをフラフラとして、気づけば私の傍にいた、神出鬼没なロイと目の前の彼が同一人物だとはどうしても思えなかった。
「でも今はもうそんなことはない。エミリアとあいつはもう何の関係もないんだから」
頭の整理をしようにも、婚約破棄をしたばかりのこの時期にできるはずもない。
「あの……、ごめんなさい。急に言われたから、まだ混乱してて……。今日はもう」
帰っていいかな。
ロイには悪いが、もう心身ともに疲れ果てていた。私は卑怯にも、このまま明確な返事をしないまま、逃げようとしていた。
なぜだか分からないが、次第に涙腺が緩くなってくるのが分かった。何もかもに疲れ果てて、私はロイに背を向けた。しかしそれも叶わず、ロイに腕を取られる。
「――エミリー」
その瞬間、私の中を様々な記憶が駆け巡った。初めてあの人と出会った時のこと、初めてあの人が私を愛称で呼んでくれた時のこと、初めて二人きりで出かけた時のこと――。今はもう思い出したくもないその数々に、思わず嫌悪を感じ、ロイの手を振りほどいた。
「気安く呼ばないで!」
「エミリー」
「だから呼ばないでって言ったでしょ!」
「なぜだ? もうこれはあいつだけの呼び名じゃないだろ?」
「違う! もう違うけど! ……でも呼ばないで」
ついに目尻から暖かいものが零れた。自分の意思に反して流れ落ちるそれに、どうしようもなく苛立った。
「じゃあ一生このまま誰にも愛称を呼ばせないのか?」
そして見当違いなことを言い出すロイにも苛立ってきた。本当、私のことは放っておいてほしい。
「エミリーだって俺の名前を愛称で呼んでるだろ? 俺だけってのは不公平だ」
ふて腐れたようにロイは言った。私もその理由に納得――しかけ、慌てて首を振った。
「は、はあ? 何言ってんの。あなたが呼べって言ったんじゃない」
「じゃあエミリーもいいだろ?」
「どこがじゃあなのよ! 全然繋がってないし」
なんだか今日は、ロイと話すだけで疲れる。私は肩を落としてロイに背を向けた。
「もうお願い……。今日はもう放っておいて。今度また話しましょう」
「おい、エミリー!」
「ごめんなさい。また今度会いましょう」
私は有無も言わさずに歩き出した。彼も理解してくれたのか、今度は引き留めなかった。
*****
風の噂で聞いた。レオナルド様が平民の女性と駆け落ちしたとのことだった。彼の家は、私との婚約破棄及び、平民との結婚を許さなかった。両親を説得するでもなく、彼らはある日忽然と姿を消したそうだ。
「リリー、私、ちょっと小耳に挟んだのだけれど、レオナルド様が駆け落ちしたって本当?」
侍女のリリーは、紅茶を入れる手を止め、見開いた目で私を見た。
「お嬢様……、ご存じだったのですか」
「ええ……、偶然聞いてしまったの」
「そうですか……。邸の皆も、できるだけお嬢様のお耳には入れないようにしていたのですが」
「別にそんなに気を遣わなくてもいいのよ。もう気にしていないから。――でも、真実は確かめたくて」
リリーはポットを置き、恐る恐るといった様子で口を開いた。
「――はい、あの方は確かに駆け落ちしました。当主に反対された数日後に、お相手の方と旅立たれたそうです」
ふっと私は息を吐いた。もはや心に元婚約者がいなくても、やはり気にはなっていたのだ。あれからどうなったのかと。
「当主は大変は大変お怒りになり、絶縁したそうです。ハザール家は弟君がお継ぎになるようですよ」
「大変ね、あの家も。弟さん、確か各地を放浪気味なんじゃなかったかしら」
「はい。放蕩息子がハザール家を継いだら没落するのでは、と噂されています」
「そう……」
なんだか疲れてきて、私はカップに口をつけた。程よい苦みが口内に広がった。
「でもお嬢様、私この間見てしまったんですけれど、ロイ様という方とどのようなご関係なんですか?」
むせた。思いっきり。
私はリリーに背中を軽く叩かれながら、一旦カップをテーブルに置いた。
「な、なに、いきなり!」
「いきなりでしょうか? それはすみません。でもつい気になってしまったので」
「――別にどんな関係でもないわ。ただの……ただの友達?」
「どうして疑問形なんですか。それに、男女間に友情は芽生えるんですか?」
「芽生え……るんじゃないかな? 事実、私とロイがそうだし」
「私の目には、どこからどう見ても喧嘩している恋人にしか見えませんでしたけど」
「けっ、喧嘩って……! もしかしてあの時見てたの!?」
驚愕に目を見開いた。なぜよりにもよって、愛称で呼ぶやら呼ばないやら言い合っていたあの場面を見るの!? いつもならもっと安全圏な話をしていたのに。
「それはもちろん、ばっちり見てましたよ。邸のど真ん前で面白そうなことやってたら、目立たないわけありませんし」
「う、うわあ……。恥ずかしい」
私は思わず両手で顔を覆った。彼とは何の関係も――あ、でも告白されたか。しかし、現時点では、リリーが推測するような関係ではないことが確かだ。
「だから、本当に彼とはそんな関係じゃないから。ただの……、そう、幼馴染よ」
「えー、本当ですか? それにしては随分仲睦まじげに見えたのですが」
「きっ、気のせいよ!」
たくさん言い訳をしたせいか、のどが渇いて私はカップに口をつける。
「でもお嬢様、駆け落ちはしないでくださいね」
再びむせた。
「――もう! いったいなんなの!? ただの幼馴染だって言ったじゃない」
「いえ、でも万が一ということもありますので。一応釘を刺しておこうかと。お嬢様が駆け落ちなさったら当主も嘆き悲しみますから」
「……わかってるわ。そんな考え無しなこと、絶対にしない」
「ええ、本当にあの方は考え無しですよね」
リリーの言葉で、私の科白は、レオナルド様を貶しているものだと気づいた。
「別に、あの人がそうだって言ってるわけじゃないわ」
「いえ、でも私は考え無しだと思います。ハザール家には大勢付き従っている者たちがいるのに、彼らを見捨てるなんて。自分だけの人生ではないのですよ。それに、一度反対されたからって、足掻きもせずに楽な道を進もうとする、その心意気が腐ってます」
リリーはたがが外れたように辛辣な言葉を吐いた。私は苦笑をしながら、でも否定はしなかった。貴族には貴族の最低限の義務がある。元婚約者にも、それは分かっていると思っていたのだが。
しばらく感慨に耽っていた。元婚約者との思い出は、もはや過去のことだ。話題に出したのは自分だが、もう一度、この記憶に蓋をしようと思った。
「してお嬢様、あの方、ロイ様とやらではないですか?」
「――えっ?」
一瞬なんのことだか分からなかった。リリーが向いている窓の方へ向かうと、確かにそこにロイがいた。その姿を確認してもなお、自分の目を疑った。
「確かにロイね。こんなところで何してるのかしら……」
思わず駆け寄って窓を開けた。その音に気付いたのか、ロイもこちらを向いた。
「よ、元気そうだな」
「え、ええ……、元気だけど。それよりも、こんな所でなにをしてるの?」
「何って……ご当主に挨拶をしに」
――にこやかな笑顔で返された。
「当主って、まさか私のお父様のこと?」
「もちろん!」
またもや一言で返された。普通、こういう時は相手が聞きたいだろうことを悟って、もっと自分から答えてくれるはずではないのだろうか。本当に彼は、大切な時はとことん口数が少なくなるようだ。知りたいことはもっと別なことなのに、彼は私の聞きたいことを悟ってくれない。
「えーっと、じゃあどのような用事で?」
「挨拶をしに」
「――っ」
これでは堂々巡りだ。私は溜息をついた。会話が続かない。
「エミリー、ちょっと降りてこいよ」
「……そうね。すぐ行くわ」
その場の流れで会話を続けていたが、確かにロイにとっては首が痛くなる構図のはずだ。私はいそいそと階下へ降りていった。
「そういえば、お父様はどうしたの?」
ロイのところへ向かう途中、傍らにいた執事に尋ねた。彼は困ったように眉を下げ、苦笑を漏らした。
「ただいまお出かけになっています。もう少しでお帰りになるでしょうが」
「そう……、ロイったらお父様になんの用なのかしらね」
「お嬢様、ご当主が彼を目にしたらお怒りになるかと……」
「そう? 怒るかな? でもロイ、お父様と何か関係があったのかしら。知ってる?」
「ええ……、関係はあるというか、もうないというか……。しかし彼を目にしたらお怒りになることは確かなので、早々にお帰りになってもらわないと」
「そうね、とりあえずは話を聞いてみるわ。でも意外ね、お父様が怒るほど二人の関係悪いのね」
「はい。でも本当に早く――」
「大丈夫よ、ちょっと話をするだけだから」
なおも困った顔を浮かべる執事に、私は笑顔を返してエントランスに向かった。
*****
ロイはなかなか中に入れてもらえないのか、エントランスで佇んでいた。執事の強固な守りに、さすがのロイも押し入ることはできなかったようだ。
「お父様、今出掛けてるみたいよ。――でもあなた達二人、仲が良くないって聞いたわ。早々にお引き取り願いたいって執事が言ってたのだけれど」
言外に早く帰れという気持ちを込めてみる。人の良いお父様と不仲な人は数少ない。何をやらかしたのかは知らないが、ロイがその中の一人だというのなら、お父様と対峙させないようにするしかない。
「まあ向こうからしてみればそうだろうな」
「で? 今日はお父様に何の用なの?」
今度こそ誤魔化せないように揺るぎない瞳をロイに向けた。彼は微かに笑った。
「――婚約を申し込むために」
一瞬時が止まった。
「え……。お父様と?」
頭が混乱してきて自分でもよくわからないことを口走ってしまった。当然のごとくロイは怒った。
「はあ? 何言ってんだよ。お前とに決まってんだろ」
「いや、ロイこそ何言って……。私と婚約!?」
「ああ、さっきからそう言ってるだろ」
「え……、いや、どうして?」
さっぱり状況が掴めない。この前ロイの気持ちは知ったばかりだが、まだ私はなんの返事もしていない。にもかかわらずいきなり婚約など、些か気が早すぎではないだろうか。
「あのー……、婚約がどういうものなのか、もちろん分かってるわよね?」
「何言ってんだ」
一蹴された。この気まずい状況をどうやって打破すればいいんだろうか。
「急に婚約って言われても……。とっ、当人たちの気持ちはどうなるのよ」
私の言葉に、ロイはとたんに不思議そうな顔になった。
「当人って……、俺の気持ちはこの前伝えただろ? それとももう一回聞きたいのか?」
なんだか最近、ロイが全くの別人に見えてくる。彼の甘い言葉に、私は条件反射で顔を赤くした。
「は、はあ? そういうことじゃなくて、私の気持ちはどうなるのよ」
「本来婚約というものは家同士の繋がりのためにするものだろう? エミリーの気持ちは必要なのか?」
ロイに真面目な顔で返され、私は言葉に詰まった。婚約には当人の気持ちなど関係ない。そんなこと分かりきってたはずなのに、ロイなら分かってくれているはず、そんな思いがどこかにあった。
「そう……、そうよね。ごめんなさい。でも私の家とあなたの家、結婚で繋がりができても利益はあるの?」
そもそも、ロイは貴族なのだろうか。普段の素行を見ていると、そんな様子は全く見えない。まさか貴族の息子がロイの様に放浪しているとも思えない。ロイくらいの年齢なら、騎士になるために修行しているはずだ。となると、考えられるのは平民か、旅人、吟遊詩人……。うん、最後のはないな。
「お父上を納得させるだけの材料は用意してきた」
「……あなたに利益はあるの? 私の家とのつ繋がりがほしいの?」
「――だから何度言えば分かってくれるんだ。もう一度俺の気持ちを言ってほしいのか?」
「――っ! もうわかったから! 言わなくてもいいわよ」
再び顔に熱が集まるのに気づかない振りをする。どうしてこんなに話が進まないんだろう。というか、早くしないとお父様が帰ってきてしまう。
「でも、もし将来エミリーが婚約解消したいって時が来たら、俺に言ってくれ。その時は大人しく引き下がる」
「えっ、ど、どうして?」
「嫌々ながら結婚はさせたくないからな。俺に言ってくれ」
「は、はあ……」
それはそれで、何のために婚約をするのか、純粋な疑問がわいてくる。そもそも、そんなに簡単に婚約解消するなら、ロイはそこまで私が好きじゃないんじゃ……? いや、別にそれならそれでもいい。別に、私は気にしない――。
「ただし条件がある」
「……条件?」
そういうことは一気に言ってほしい。
「まず初めは、エミリーに好きな人ができたらだな。そしてその相手も同じ気持ちで、かつ双方の両親も納得していて、かつ――」
そこでロイは一呼吸入れる。条件多いよ、という突っ込みは我慢することにする。
「俺が認めた相手なら婚約は解消する」
「え……?」
「その代わり、もしそんな相手が現れずに、エミリーが俺を好きだと言ってくれるのなら……、結婚しよう」
先ほどから私の頭は正常に作動していない。動かない頭に、ロイの言葉を咀嚼させてやっと、その意味が次第に頭に入ってきた。なんだかこっちが恥ずかしくなってくる台詞だ。
「あの、あのさ、そんなの」
必死に私は取りあえず自分の思いをロイに伝えようと言葉を紡ぎ出すが、当の本人は表情すら変えない。なんだか脱力してしまった。
「ロイにとって不利益多過ぎじゃない」
「俺はそれでも構わない。今までの状況からみれば、大した進歩だ」
「大した進歩って……」
「それに、希望がないわけじゃない」
「……えっ?」
ロイが悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「もうエミリーって呼んでも嫌がられないみたいだしな」
「なっ、なっ、それはあんたが勝手に、強引に……!」
とんだ勘違いだ。どんなに拒否しても、ロイが愛称呼びを止めてくれないから、もう半分諦めてただけなのに。もう本当、この人の思考回路はどうなってんの……!
「じゃあ今、その呼び方止めてって言ったら諦めてくれるの?」
「断る」
想像通りの答えだ。
「はあ……」
今日何度目かの溜息をつく。本当に、ロイはよくわからない。今まで幾度となく話す機会はあったが、今日ほど不可解な日はなかった。そして、今まで生きていて、今日ほど疲れる日はなかった。
「……時間、かかるかもしれないのよ」
「いつまでも待ってる」
「ロイの想いが成就しなくても?」
「ああ。それは俺の努力が足りなかった時だ」
「もう本当、馬鹿……」
「馬鹿で結構」
どうして私に恨みごとの一つでも言わないのだろう。自分が損するような取引を持ち掛けて、ロイはどうしてそんなにも私のことを――。
「何を、している」
聞きなれた、渋い声が頭上から降り注いだ。
すっかり忘れてた、この人のこと。
私は恐る恐る後ろを振り向いた。そこには予想通り、不機嫌を通り越して無表情になっている父がいた。
「お父様……、お早いですね……。お帰りなさい」
「ただいま、エミリア。早く帰ると何かいけないことでもあったのかな。いや、現にあるな。こいつがのうのうとエミリアにちょっかいを掛けているのだから」
「お義父様、お目にかかるのはこれで二度目ですね。ご存知かとは思いますが、自己紹介させてください。ロイベルト=ハザールと申します」
いろいろと突っ込みたい部分はあるが、何より最後の台詞に引っ掛かった。いや、しかしただの聞き間違いかもしれない。
「お前がここに何の用だ。しかも直接エミリアに会うとはいい度胸だ」
「お褒め頂いて光栄です」
「…………」
段々、ロイの物言いが天然に見えなくなってきた。天然を通り越して、これはもう腹黒がなす発言ではないだろうか。お父様も若干顔が引きつっている。珍しく、今の私とお父様の気持ちが一致しそうな瞬間だった。
「とにかく、私はお前の兄がやらかしたことは一生許さんぞ。今日のところは目を瞑ってやるから、このまますぐに出ていけ」
「もう兄ではありません。彼は絶縁されたのですから」
――なんだかどこかで聞いたような話、ですね。
「しかしハザール家とあいつの血筋が同じなことに変わりはない。その縁者のお前が目の前にのさばっているだけでも腹立たしいのに」
……聞き間違いではなかったようだ。
「あの、ちょっと聞きたいんだけど」
一発触発の雰囲気のところ、私は気まずい思いをしながらも声をかけた。このまま蚊帳の外では納得いかないし、どうも私と関係があるような話のようだ。もし、彼に関することなら。
「もしかして、ロイってレオナルド様の弟……なの?」
「ああ、遺憾ながら」
答えちゃったよこの人。一瞬の呼吸もおかずに。あまりにも躊躇しなかったので、逆にその事実がうまく頭に入ってこない。
「あ……、そうなんだ。知らなかった」
やっと絞り出して出てきたのは、特に何の変哲もない感想だけだった。今のごちゃごちゃとした感情の一部も表せていない。
「正式な自己紹介すらしてなかったからな」
「ということは、ロイってあの放蕩息子って言われてる弟……なの?」
「ああ」
そういわれてみれば、全て納得がいく。私から見てもロイは神出鬼没だし、周りにそう噂されるのも分かる。――しかしロイが貴族だというのには驚いた。てっきり旅人なのかと思っていた。定職にも就いていないようだったし。
私の中で疑問が一区切りして、安心した。しかしまたもやロイは爆弾を投下してくれる。
「お義父様、エミリア嬢との婚約をお許しください」
「――っ、まだ言うか! それにその気持ち悪い言い方は止めろ! そしてさっさと出ていけ! 」
「今日は話がつくまで帰る気はありません」
「このたわけがっ!」
二人の声量はどんどん大きくなっている。ここが当家の敷地内であることを、神に感謝した。このような修羅場を人通りの多い広場なんかで繰り広げられた日には、もう外に出ることなんかできない。本当、私の家でよかった……。
しかし、それも次第に考え直させられるようになった。ここには市民の野次馬的な目とはまた違った衆目――使用人たちの好奇心旺盛な目があった。彼らは主の娘である私と目があっても、にっこりと微笑みを返すだけで、ちっとも仕事に戻ろうとしない。本来なら慌てて気まずそうに眼を逸らすはずなのに――! 加えて侍女たるリリーなんかは、邸の扉の影に陣取って、こちらの会話を聞き取ろうと必死だ。姿を隠そうとする努力すら見られない。野次馬根性丸出しだった。
「ほ、ほら、お父様、みんな見てるし、落ち着いて……。ロイも、今日のところは帰ってくれない? お父様帰ってきたばかりで疲れているだろうし」
「そうだそうだ、厄介者は帰れ!」
「お義父様のお疲れが癒えるまで、いつまでも待ちますよ」
「気持ち悪いことを言うな!」
「あ、あの、落ち着いて」
なんだか泣きたくなってきた。私ではどうしようもできない!
さっきよりも明らかに盗み見をしている使用人の数は増えている。私は知っている。彼らが、いつも何か噂話の種になりそうなものを探していることを。そして見つけた挙句には、休暇をとっていた他の使用人にまで言いふらしていることを。きっと明日になれば、目の前で繰り広げられた修羅場の話が、面白おかしく尾ひれも追加されながら、邸の中を駆けまわるのだろう。
「お願いだから、せめて中で話し合ってよ!」
この様子がいつまでも続くと、私の精神がもたない。そして噂の防波堤も。先ほどから門の前を通る通行人が、こちらをチラチラと見ている。これが悪化したら、通りすがりの市民が立ち止まって見学する野次馬と化すかもしれない。それだけはお断りだ。ただでさえ、婚約が破棄されたとのことで十分な噂になっているのに。
「――そうだな、そうしよう。一度、こやつとは話をつけないとと思っていたのでな」
そう言ってお父様は不敵に笑って邸へと移動し始めた。なんとか目的の場所へと誘い込めそうなことに安堵する。
「僕も今日は引きませんよ」
こちらもまた不敵に笑う。当事者を差し置いて、よく言うよ、本当。
「あの……、気をつけてね。お父様、今すごく怒ってるみたいだし」
いつもお父様の不機嫌を宥めるのは私の仕事だった。だから余計、お父様が面倒くさいことを知っている。思わずロイの後ろ姿に声を掛けたら、彼は振り返って目元を和らげた。
「心配してくれるのか?」
「はあ!? ちがっ! ただお父様を怒らせて面倒なことにならないようにって……!」
もうすでに父は怒り心頭だが。そこは置いておいて、慌ててロイの好都合な考えを否定した。
「大丈夫だよ。俺はやる時はやる男だ」
「は、はあ……」
今まで一度も本気になった姿は見たことないが……。
私の心配をよそに、ロイは上機嫌で邸の中へと入っていった。煮え切らない思いを抱えてその様子を見ていたら、リリーが寄ってきた。
「お嬢様、彼のことが心配ですか?」
「――だから違うって」
どうして誰もかれも似たようなことを言うんだ。そんな風に見えてしまうのか、私は。
「それよりも、よくもまあ悪びれずに出てきたわね。私あなたが盗聴している姿をバッチリ見ていたのだけれど?」
「それは当たり前です。身を隠そうともしていなかったので」
「……せめて姿くらいは隠してよ。こっちが恥ずかしかったわ」
「すみません」
「はあ……」
見られてしまったのならもう仕方がない。これから数か月はこの話題で邸は持ちきりだろう。
「せめて、邸の外ではこの話はしないでね」
「しませんよ、そんなこと。でもすぐにこの出来事は塗り替えられると思いますが」
「どういうこと?」
「新たな噂が、現在進行の形で幕を開けるってことですよ」
「はあ……、そうなの?」
リリーまで意味深げに笑い始めた。本当、私の周りの人たちは何なんだろう。常人である私の理解を超えている。
そして数時間後、やっと父の書斎から出てきた二人は、こちらからも勝敗が想像できるほどにわかりやすかった。
先ほどのリリーの発言の意味を薄らと理解した。
「彼、当主に勝利したようですね」
「そうみたいね」
初めてロイの本気を目の当たりにしてしまった。
ロイは私と目が合うと、片手を上げて、再び不敵に笑った。開戦の合図――もとい、宣戦布告をされたような気がした。
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