第十六話 団結は源なり

98:成長


 ゆっくりと刻まれる壁時計の音だけがその一室に響き渡る。
 エミリアは次第に気まずくなって、執事の方を上目づかいで見つめた。彼は相変わらず微笑を浮かべたままだった。

 いい加減、じっと見つめるのは止めてくれないかしら。
 この執事、エミリアがホットミルクを飲む間中、ずっとその様を笑みを浮かべて見つめるばかりで、それ以外のことはしようとしない。見つめられる側は居心地が悪いったらなかった。

「落ち着きましたか?」
 ようやく執事が口を開いた。エミリアは何を言うでもなく、こくりと頷く。

 中へ入ったはいいものの、これからどうすればいいという考えは全くなかった。その場の勢いで来たのだから、考えなしと言われても仕方がない。

 この執事を撒いてフィリップの元へ行こうにも、彼はエミリアの一挙一動を嬉しそうに眺めるばかりで、どこかへ行くことも無い。彼の懐にでも入っているだろう鍵の束を拝借しようにも、この隙のなさそうな執事の裏をかくこともできなさそうだ。エミリアはすっかりお手上げ状態だった。

「お口に合いましたでしょうか」
 再びにこにこと執事が尋ねる。少し躊躇って、エミリアも口を開いた。

「……おいしい、です」
「おかわりはどうでしょう? あ、でも紅茶の方がよろしいでしょうか。このお菓子にも合うように」
「……紅茶でお願いします」
「すぐにお作りしましょう」

 そう言って席を立つと、執事は別室へ姿を消した。思いのほか、すぐに機会がやって来たので、エミリアは面食らったままゆっくりと腰を上げた。

 今……しかないのかしら。今ならここから逃げ出すことができるかも。
 しばらくエミリアはその場で逡巡していたが、やがて徐に立ち上がった。そうしてそろり、そろりと足音を忍ばせ――。

「……何を、してらっしゃるんでしょう」
 途端に目の前の扉が開き、執事が出迎えた。エミリアは固まった。まさかこんなに早くに帰ってくるとは思いもしていなかった。

「ここへ出て、いったいどちらへ?」
「…………」

 エミリアの頭の中を様々な言い訳が飛び交うが、適当なものが見つからない。だらだらと冷や汗を流していると、やがて執事はにっこり微笑んだ。

「……待ちきれなかったようですね」
 長い沈黙に、見かねた様に執事が助け舟を出した。パーッとエミリアの顔が明るくなる。

「……! そうなんです、とっても喉が渇いていて、待ちきれなくって!」
 つい先ほどホットミルクを飲んだ子供の言葉とは思えない。

 しかし執事はそれ以上詰問することなく、テーブルにコトリとカップを置いた。有り難くエミリアはそれに口を付ける。

「…………」
 僅かに、僅かにだが、エミリアの眉が寄った。しかしそれはすぐに解かれる。ものの数秒の出来事だった。しかし聡い執事はそれを見逃すことは無かった。

「どうかしましたか? 口に合いませんでしたか?」
「あ……いえ、おいしいです」

 エミリアはにっこり微笑んでみるが、この執事には効かないようだ。何やら勝手に落ち込んでしまったようで、執事はがっくり肩を落とした。

「……やはり、私の紅茶は口に合わないんでしょうか。独自にブレンドしてみたのですが……。何か気づいたことがあったら教えてくれませんか? 可能な限り、改善したいんです」
 彼はあくまで真剣にエミリアを見つめる。次第に彼女の方も気の毒になってきた。

「……別に、変という訳ではないんです。ただちょっと、わたしの口には合わないというだけで……」
「口に合わない? おいしくないんでしょうか?」
「味が濃いんです。わたし、味の薄い紅茶に慣れているので」

 エミリアは困ったような笑みを浮かべた。
 ――さすがはエミリアと言うべきか、彼女はどこかの野生児とは違い、自分達の味覚が特異であることに気付いていた。調味料及び紅茶代をケチるため、味を薄くするのは子爵家の常套手段である。味覚も発達していなかった小さな子供たちが、味の薄いものを好むようになるのはごく自然なことだった。

「味が濃い……ですか」
 それを真に受けた純粋な執事。彼は、エミリアの言うことを簡単に信じ、自分の腕が悪いのだと考え始めていた。この家の紅茶は全て彼のブレンドによるものだが、彼女の一言をもってして、以降紅茶のブレンドを更に研究しようと決心した。

「そう言えば、あと一つ、聞きたいことがあったのですが」
「何でしょう?」
「味が濃い……というのは、やはり料理にも影響するんでしょうか? 自分の味覚に合わないと、食事が喉を通らなくなることもあるのでしょうか?」
「……そうですね」

 なぜだか、すっかり立場が逆転している。迷子であるはずのエミリアに、執事が低姿勢で助言を乞うこの構図。周囲から見れば何をやっているんだと呆れた視線をもらうこと必須。

「敏感な方だったらそういう場合もあるかもしれませんね」
「そうですか……」

 更に落ちこむ執事。
 何となくではあるが、彼が言っているのはフィリップのことではないか、そんな予感がエミリアにはあった。

「とはいっても……食事が喉を通らないのは、それだけが原因かは分かりませんが」
 遠慮がちに言ってみる。執事はしんみり頷いた。

「分かっているんです。それは分かっているんですが、でもいくら好物のものをお作りしても、あまり頂いてもらえないんです。一体どうすれば……」
「……人の好みは、気がつけば変わっていることもありますからね」

 どこか遠い目をしてエミリアは言った。
 子爵家の面々は、よく食べ物の好みが変わる。あれが好きだと言ったら、次の機会にはもうこれは嫌い、なんてことも多々ある。それに合わせるのは、エミリアにとってなかなかの気苦労を伴った。執事の仕事も大変だわ、と彼女は目の前の男性に共感を持った。

 ……ただ、ここで一つ言及しておくと、子爵家の面々は、実際に好みが頻繁に変わっているわけではない。変わってはいないが、エミリアには変わったと伝えただけだ。

 エミリアが子爵家の料理長というのは、言わずと知れたことだが、彼女の場合、一度何かを好きだと言ったら、最低一週間はその料理が続く。いい加減飽きた子供たち――しかし作ってもらう側で、遠慮がちな子供たちは、彼女に言うのである。もうこの好物は好きではなくなった、と。そうとは知らないエミリアは、好みが頻繁に変わることに少々ご立腹になるという訳だ。

 同じものを一週間も食べたくないのなら、エミリアに直接言えば良いという話だが、嬉しそうに『はい、これ、好きだって言ってたよね』と出されてしまえば、途端に不満が萎んでしまう。そうして、悪気はないのだからと我慢すること一週間、根を上げた子供たちの方が好物の変動を申し出ることとなる……と。幸か不幸か、エミリアは未だこの事実を知らなかった。

「そう、ですか。確かにそうですね。私は……いつまでもあのまま、お坊ちゃまを見ています。成長しないといけないのは、私の方ですね」
 自嘲するような笑みを浮かべた後、彼は何かを決意したかのように不意に姿勢を正し、エミリアを見やった。彼女もつられて居住まいを正す。執事はそんな彼女を見て、柔らかな笑みを浮かべた。

「フィリップ様の、今の好物を教えてくれませんか?」
「――っ」
「エミリア、様ですよね。フィリップ様のお姉さまでいらっしゃる」
「……ど、どうして……」

 再びエミリアは言葉を無くす。警戒よりも先に驚きがきた。優しい表情で執事は続ける。

「失礼を承知で、時々あなた方を観察していました」
「一体……どういう……?」
「フィリップ様を外へ逃がしたのは、私なんです」
「……外へ?」

 エミリアはフィリップの境遇をほとんど知らなかった。ただ、彼が初めて子爵家へ彼が来た時のことは覚えている。ひどく震えていて、人が近寄ることすら怖がっていたように思う。

「それからは……ずっと、フィリップ様含む、子爵家の方々を観察していました。始め、フィリップ様が親もいない子供だけのあの子爵家に引き取られたと知った時、上手くやって行けるのか心配だったのですが……。全くの杞憂だったようです。姉君――アイリーン様は、とても素晴らしい女性ですね」
「……あ、ありがとうございます」

 なぜかエミリアの方が照れてきて、視線を落とした。こんな風に姉のことを褒めてもらえるのは、珍しい――いや、実質初めてのことであった。

 しかしすぐに思い立つ。今の自分たちの状況に。姉が追いやられている状況に。

「でっ、でも、それならどうして姉御が誘拐なんてことに――!」

 問題はそこだった。
 フィリップの父親が息子のことを心配するのは分かるが、いったいどうして誘拐ということになったのか。彼の居場所は、この執事がずっと知っていたというのに。

「……申し訳ありません」
 執事は沈痛な面持ちで声を絞り出した。

「これ以上……申し上げることは」
 エミリアは思わず拳を握った。必死で怒りを押しとどめると、彼女も震える声を押し出す。

「姉御、このままだと本当に誘拐犯ってことに……。フィリップだって、どうしてお別れも言わせてもらえないんですか? 少し……ほんの少しで良い、フィリップと話す時間が欲しいんです」
「……申し訳ありません」

 ただただ執事は頭を下げた。しかしエミリアだってこれくらいで引くことなんてできない。更に口を開こうとした時、不意に遠くから馬車の車輪の音が聞こえてきた。これ幸いと、すぐに執事は顔を逸らした。

「……どなたかいらっしゃったようです」
「まだ話は終わって――」
「申し訳ありません。失礼します」

 機械的に頭を下げ、執事は部屋を出た。エミリアをそこに残し、早足でエントランスに向かう。やるべきことがあることに、ホッとしてもいた。

「遠路はるばるようこそおいでくださいました。どうぞ中へ」
「失礼する」

 隊長らしき男性が一人と、騎士が数人。
 今から、彼らを旦那様の元へご案内せねば。

 そうは思うものの、なかなか足が動かない。彼の足は屋敷の扉の前で止まったままだ。

 扉に手をかけ――すぐに止まった。いつもなら、人嫌いの当主のために、いちいち鍵を掛けなければならないこの扉。伸ばした手は、ついに錠前まで届くことなく下ろされた。

「おい、何をしている」
「――はい、すぐに参ります」

 切り替えるように息を吐き出すと、執事はすぐに前を向いた。