第十四話 会うは離散の始め

84:寂しい子爵家


『姉上、いい加減起きてくださいよ。遅刻しても知りませんから』
『師匠、俺よりも起きるの遅かったね! 師匠の分の朝ごはん、全部食べちゃったから!』

 そんな風に呼びかけられているような気がして、アイリーンの意識はふっと上昇した。柔らかい髪が頬を撫で、寝ぼけ眼で口の端を上げる。

「ステファン……ウィルド……?」
「何寝ぼけてるんですか。早く起きてください、姉御」

 途端に目に入る、何かもの言いたげな瞳。ステファンの様に呆れた様な瞳でもなく、ウィルドの様に悪戯っぽい瞳でもなく。ああ、エミリアだったかと、胸の奥をスーッと風が通って行くような、そんなもの悲しさを感じながら、アイリーンはベッドから起き上がった。うーんと背伸びもする。

「姉御、一度で起きてくださいよ。昨日夜遅くまで頑張っていたのは知っていますけど、それとこれとは話が別です」
「……はい」

 すっかりしょげ返りながらアイリーンは、ぬくぬくとしたベッドから降り立った。むっつりとした顔で階下へ降りていくエミリアを見、一つため息をついた。

 子爵家が揃った最後の晩餐から、数か月が経った。ウィルドの後を追う様にしてステファンも国立学校に合格し、寮に住むようになった。ステファンはこまめに手紙を送ってくれるが、ウィルドはというと、三通のうち一通しか帰って来ない。寂しくなるのも当然というもの。

 弟たちがアイリーンの元から旅立って数か月。未だ、彼女は三人だけの生活に慣れていなかった。

 のそのそと着替えをしながら、アイリーンは欠伸をかみ殺した。なかなか起きられない彼女を起こすのは、以前はステファンの役割だった。それがいつの間にか、エミリアへと変わっていた。

「今日の朝食は大量だよ」
 居間へ向かう途中で、大きなかごを抱えたフィリップに出会った。毎朝畑で朝ごはんを調達するのは、以前はウィルドの役割だった。俺の聖地だと言い張り、大事に大事に育てていた彼の畑は、今や、アイリーンたち三人、交代で世話するようになっていた。

「……すっかり静かになっちゃったわね」
 エミリアが用意してくれた熱々のスープを前に、アイリーンは思わずそんな言葉を漏らした。

「ステファンやウィルドがいないだけでこんなに静かになるなんて。何だかちょっと寂しいわ」
「……どうせ休みになったらすぐに戻ってきますよ。それにわたし達は、兄様たちと違って家を出て行く予定なんてありませんし。ねえ?」
「うん」

 エミリアがフィリップに目配せし、彼は神妙な顔で頷いた。

「どうかしらね。どうせ女の子はすぐにお嫁に行っちゃうんだから。フィリップだって……。何だかね、私すごく思うのよ。四人の中で一番早く結婚をするのはフィリップなんじゃないかって。それも、婿入りという形でね。あれよあれよという間に結婚までこぎつけて、私たちが交際の事実を知るのは、フィリップが結婚の報告をする時なんじゃないかって。フィリップは末弟だけれど、何だかそんな予感がするのよねえ。みんなの中で一番早いって。あ、もちろん私以外でよ? そりゃあ五人の中だったら私が一番早いに決まってるじゃない。そこまで嫁ぎ遅れになるつもりはないわ。ええ、そうね。フィリップが結婚するよりも早く、いい人を見つけて結婚するつもりよ。さすがに一回りも歳の離れた弟に先を越されるつもりはないものね。あ、でも別に今のは牽制じゃないのよ? もし私よりも先に結婚することになっても、もちろん反対するつもりはないわ。それについては安心してもらっても結構――」
「姉御」

 エミリアの鋭い声がアイリーンのそれを遮る。姉の声はピタッと止まった。

「そんなのどうでもいいから早く食べてください」
「ど、どうでもいい……?」
「はい。わたし達が遅刻するかどうかがかかってる今では、すごくどうでもいいです。早く食べてください」
「――はい」

 もう何も言うまい。
 アイリーンは肩を落としながら、すっかり冷めてしまったスープを口に入れる。

 近ごろの子供たちの自分に対する扱い、どんどん酷くなっているような気がする……。
 そんな悩みを抱えながらも、アイリーンはもそもそと食事を再開するしかなかった。弟妹達の遅刻理由に自分の名が挙がるのは、何物にも耐えがたかった。

*****

 人恋しくなった時に一番効果的な方法。それはもちろん、アマリスの店に寄ることだろう。彼女は訪れた人の精神状態など全く構わずに、手当たり次第に、まさに弾丸の様に話し続けるのが得意だ。落ち込んでいても寂しくても――怒っているときはもちろん別だ、絶対に彼女の店には寄らない方が良い。更に怒りが爆発すること請け合いだ――。

「お、アイリーン! おーい!」
 いつものように、大分離れた場所からでも、アマリスは目ざとく見つけた。アイリーンは苦笑いで頭を下げる。

「こんにちは。お久しぶりですね」
「本当にねえ。この前叔父さんの時以来かなあ」

 ピクッとアイリーンの頬が動いたが、すぐに調子を取り戻した。

「……ええ、そうですね。その節はお世話になりました」
「何の何の。あれからラッセルさんの姿は見えないけど、ちゃんと仕事は見つかったのかい?」
「……どうでしょうね。多分、この街にはもういないかと。きっと元気に暮らしてると思いますよ」
「ふーん……」

 探るような目で見られたが、それ以上アイリーンは何も言わなかった。

「あ、そういえばこの前、ウィルドに続いてステファンまで来たくれたよ。試験、受かったんだって?」
「あ……そうなんですよ! 推薦じゃなくって、きちんと実力で受かったんです!」
「良かった良かった。あの子も随分努力してたみたいだからねえ。実を結んだみたいであたしも嬉しいよ」
「ええ、本当に」
「確か、ステファンは寮に住むんだよね? じゃあ一気に家の中が寂しくなるねえ、ウィルドに続いて、ステファンまでいなくなるんだから……」
「本当に」

 アイリーンは感慨深く頷いた。

「家の中がずいぶん大きく、静かに感じますよ。家の中にいても、何だか寂しいんです」
「そのせいかねえ、あの子たちもよくここに来るようになったの」
「え?」
「エミリアとフィリップさ。二人とも寂しいんじゃないの? かといって一家の長たるアイリーンが率先して暗い雰囲気を醸し出してるんじゃあ、そんなの口に出せやしないよ」

 目を丸くして、アマリスを見やった。そんなこと、考えたこともなかった。

「後悔するんじゃないよ? 今あんたの一番近くにいるのはあの子たちなんだからさ」

 アイリーンは、その言葉に何も返せなかった。その通りだと思う半面、じゃあ私はいったいどうすれば?と疑問で一杯だった。

 もうすっかり日も暮れ、人気のない通りをとぼとぼと歩いた。今朝子爵家を出た時よりも、ずっと寂しい気分だった。

 あの子たちの、好物でも買ってみようか。
 何も思い浮かばないので、物で釣ってみようという考えだった。

 思い立ったらすぐ行動の彼女は、唐突にくるっと身を翻した。しかしその目の端に、何やら怪しい一行が目に入る。彼らは、アイリーンが振り返ったと同時にすばやく物陰に身を寄せた。しかし既にもう遅い。ばっちり目視してしまった。

 アイリーンも鈍感ではない。さすがに気付いた。サーっと血の気が引く。

 え、もしかしてつけられてるの……? でも、私、何もしてない……とは思うんだけれど。
 そう思うのは当然のことだった。しかし、ここには彼女の他に人気はない。

 アイリーンは自然と足を速めた。今は好物を買うよりも、人気のある所に出ようと思った。しかしアイリーンが早く歩けば歩くほど、つけている人物たちも足を速める。アイリーンが気づいていることに気付いたのか、その間隔はどんどん狭まっていた。そしてガシッと腕を掴まれた。早足が次第に駆け足になり、ついには全速力で走った後の出来事であった。

「なっ……何よ、何かご用でも?」
 どんな時でも喧嘩腰なのは変わらない。息が切れていることに目を瞑れば、なかなかの迫力だった。おまけに彼女は今虫の居所が悪い。自分の考えをまとめるためにも、早いところ家に帰りたいというのに、この腕が邪魔をしてそれができずにいる。そもそもこの男は誰か、とアイリーンが改めて彼を眺めてみると……その表情が固まった。何を隠そう、その男は騎士団の制服を着ていたのだから。

「私、何かしました?」
 必死で考えてみるが、何もやらかしては……いないと思う。しかもよくよく見れば、その制服はオズウェルやマリウスがよく着ている警備騎士団のそれではない。何やら嫌な予感がした。それに、その男の後ろで黙ってこちらを見ている数人の騎士たちも気になる。

「リーヴィス=アイリーンだな」
「そ、そうですけど」

 どこかで見た……否、経験した光景。

「私達は王立警備騎士団のものだ。ご同行願おう」
「…………」

 確実に気のせいではない。間違いなく、以前にも同じことがあった。

「あの……ですから私、何かしました?」
 記憶では、何もしていない……と自信を持って言えるが、しかし何かの間違いということもある。先日のように、牢屋までいって無実を釈明しているようでは、妙な噂が立ってからでは遅いのである。……ステファンの耳に入ってからでも遅いし。

 半ば、アイリーンは事を楽観視していた。
 カインがいなくなったけど何か知らないかとか、どうせそんな類に決まっている。だって、現に私は何もしていないもの、記憶にないもの。

 しかしそう思って安心しきっていた時に、その言葉は耳に飛び込んできた。

「誘拐だ」
「…………」

 誘拐。
 それは以前にも聞いたことのある言葉で。

「何よ、今度は何なんですか? またカイン――あ、いえ、殿下が家出をなさったと? 困りましたわね、それは。でも残念ながら、私、その件には一切関与していませんわ。弟のウィルドなら何か知っているかもしれませんけど、でも生憎、彼はここには――」
「いったい何の話をしているのかさっぱりだが」

 男はため息をついた。

「殿下の話ではない。ウィルド、エミリア、フィリップ=クラークの以下三名の誘拐についてだ」
「……え?」

 驚き過ぎて、アイリーンは一瞬反応が遅れた。その隙に、男たちは詰め寄って来て、彼女を拘束した。

「一緒に来てもらおう」
「な……何よそれえぇ……」

 頭の中は疑問符で一杯だった。しかしそんな状態でも、ここは大人しく付き従った方が良い、そう判断を下すほどの冷静さは持ち合わせていた。

 それは、ここ何度も騎士団にお世話になったアイリーンの実体験でもあった。