第十三話 遠い叔父より近くの弟妹

81:姉、弟


 アイリーンとステファン、二人の小さな足では、屋敷に辿り着くには膨大な時間を要した。日が暮れるころにようやく家に着いた時、二人はもうボロボロだった。しかしその疲労を労わる間もなく、アイリーンとステファンは、目の前に広がる屋敷の惨状に、ただただ茫然と立ち尽くした。

「な……なに、これ……」
 思わず漏れた言葉が、緩やかな風に流されていく。

「何で、何もないの……?」
 一歩一歩と屋敷に近づく。しかしそれでも目の前の光景は変わらない。むしろもっと酷くなる一方。外に停めてあった馬車は全て消え、可愛がっていた子馬も居なくなっていた。

 アイリーンは屋敷に駆け寄り、扉に手をかけた。しかしすぐには開かなかった。鍵がかかっていた。

「鍵……鍵」
 慌ててポケットから鍵を取り出すものの、震える手では上手く掴むことができず、地面に落としてしまう。

「おねえちゃん」
 弟に拾われ、手渡されたが、アイリーンは礼を述べることなくそのまま扉を開けた。目の前のことしか考えられなかった。

 しかし屋敷に足を踏み入れると、いよいよアイリーンは言葉を無くした。中は土足で踏み荒らされ、金目の物は手あたり次第無くなっている。
 絹のカーテンは剥がされ、金の燭台は無くなり。
 キッチンの皿は割れ、絨毯には土がこびりつき。
 両親の部屋も荒らされていた。自分の部屋も同じく。

 アイリーンは震える手で己の小さなチェストを開けてみた。何もなかった。空だった。何者かは知らないが、小さな少女のちっぽけな宝石ですら見逃してくれなかったらしい。

「うっ……ううぅ……!」
 アイリーンは堪らずその場に崩れ落ちた。悔しかった。自分が何もできないことが。自分以外の何者かに翻弄されることが。

 アイリーンの嗚咽に交じるように、どこかでガタンと音が鳴った。彼女は素早く顔を上げる。

「誰っ!?」
 ステファンではない。そんな予感がした。
 すぐに立ち上がると、アイリーンはその音の元へと駆けつけた。両親の部屋で、一人の女性がおどおどとこちらを見ていた。

「わ……私よ私、アイリーンちゃん。お父様の親戚の」
「な……なに、何でここに……! もしかしてあなたが!?」
「ちっ、違うわよアイリーンちゃん! こんな酷いこと私がするわけないでしょう!」

 必死の形相で女性は頭を振った。あまりの剣幕に、アイリーンもしばし押し黙る。

「……酷いわよねえ、このありさま」
「…………」
「これ、ラッセルさんがやったのよ」
「……っ!」

 一瞬の動揺。アイリーンはすぐに反応することができなかった。しかしその彼女の手を、後ろから握りしめる者がいた。

「嘘だ……」
 振り返ると、ステファンが震えながら立っていた。

「叔父さまは……そんなことしない」
 アイリーンもその姿に勇気をもらう。

「――そうよ! 一体何を根拠にそんなこと――」
「あの人ね、借金をしていたのよ」

 弱弱しい笑みを浮かべ、女性は椅子に座り込んだ。聞き分けのない子供に言い聞かせるよう、彼女は続ける。

「今日、家に来たのよ借金取りが。あなた達三人、朝のうちに街へ出かけて行ったでしょう? その間に、この屋敷に高利貸し達が来てね、金目の物を取って行ったの。もちろん私達は抵抗したわ? でもラッセルさんにも話はついていると、許可済みだって言って、そのまま行ってしまった」
「おっ、叔父様は借金なんか……。孤児院にだって寄付してたって――」
「きっとここの物を売り払ってお金にしたのね。ここの物、借金を全て返しても利益が出るはずだから」
「――っ」

 アイリーンは言葉を無くした。それでもなお、ステファンはいやいやと首を振る。

「でっ、でも、そんなの……叔父さま!」
「ステファン君」

 女性はステファンの頭に手を置いた。

「じゃあどうしてあの人は戻って来ないの?」
 宥めるように彼女は言う。

「どうしてあなたたちを孤児院なんかに預けようとしたの?」
「…………」

 ステファンは答えない。頭の中がぐちゃぐちゃだった。

「ね、もし良かったら私、ここに住みましょうか」
「え?」

 その響きは優し気だった。ステファンは驚いて顔を上げる。

「皆でこの屋敷で暮らすの。その時は私の家族も呼び寄せていいかしら? 夫と、息子が二人、娘も一人いるんだけれどね、きっと二人と仲良くやっていけると思うの!」

 女性は拳を振り上げる。唐突なその申し出に、ステファンは戸惑う。

「あ……あの」
「幸いながらこの屋敷はすごく広いし、部屋もたくさんある。きっと毎日楽しいわよ! もしここで二人で住むとなったら、きっと寂しいと思うのね」
「…………」
「ね、私がここへ住んだら、美味しいお料理だって毎日作ってあげるわよ? 読み聞かせだってしてあげる。ラッセルさんにやってもらっていたんでしょう? 私も同じことをしてあげるわ」

 にこにこと女性は二人に近づく。

 ……その舌の、よく回ること。
 アイリーンは、いつだったかの親戚たちを思い出していた。

「……出て行って」
「え?」

 アイリーンが何やら言葉を発した。くぐもっていて、女性は聞き取ることができない。次にアイリーンが顔を上げた時、もう決心はついていた。

「出て行って! ここはわたし達の家よ!」
 戸惑う女性の体を強く押しのけた。

「ちょっ……ちょっとアイリーンちゃん?」
「もうみんな知らない! 出て行ってよ!」

 髪を振り乱してアイリーンは叫ぶ。その剣幕に、女性は一歩一歩と後ずさった。

「な……どうしたの? 一体。あなたたち二人だけで暮らせるわけないでしょう? 私たちと一緒に――」
「あなた達なんか知らない! ここはわたし達の家だもの!」

 ついに女性を家から追い出したアイリーンは、扉を背中にピッタリつけ、力尽きた様にズルズルとその場に崩れ落ちた。

「おねえちゃん……」
 意味もなく目を片手で擦ると、アイリーンはステファンを睨み付けるように見据えた。

「これからは、二人で生きていくのよ」
 しかし彼からの返事はない。

「いい、分かった!?」
「う、うん……」
 強気な姉に気圧されるようにしてステファンは頷いた。

 屋敷の外には冷たい風が吹きすさんでいる。長い冬の幕開けだった――。

*****

 アイリーンはそっと目を開いた。誰かの気配を感じた。

「……ステファン?」
 直感で、そう尋ねる。影は、やがてこくんと頷き、ベッドの傍の椅子に座った。

「起こしてすみません」
「ううん、別に寝ていないから気にしないで」

 少し息をつくと、アイリーンはベッドから起き上がった。

「どうしたの?」
「様子が……気になりまして」

 アイリーンに糾弾されてラッセルが出て行った後、彼女もまたすぐに自室に引っ込んだ。子供たちが声をかける間もなく。

 ステファンは、フィリップを寝かしつけた後、そのまま姉の部屋まで来たのである。

「……大丈夫よ。ちょっと疲れただけ。……あの人の方が、もっと大丈夫じゃないでしょうに」
「僕は……」

 少し躊躇ったようにステファンは口を開いた。アイリーンは黙ってそれを見守る。

「あの時の女性の言葉、未だに信じられません」
「……そうね」

 彼女も顔を俯けて応える。

「私も……そう、思う」
「だったら――」
「でも」

 その声は、冷たく、沈んでいる。

「今日、あの人は否定しなかったわ。それはどういうことなんでしょうね」
「……そ、れは……」
「どうして……あの人はいつも謝るばかりで、何も説明してくれないのかしら」

 物憂げにアイリーンは言う。

 叔父は、未だに自分たちのことを子供だと思っている。自分達を宥めることの方が先だと思っている。

「でも……それでも、このままで良いと思っているんですか。あの人、もうきっとここへは来ませんよ」
「…………」

 長い沈黙の後、アイリーンはため息をついた。

「……どうでしょうね」
 珍しく弱弱しい答えだった。