第十二話 姉の噂を頭痛に病む
76:教師と推薦
「あの、あれから何かありませんでした? ステファンの友人が学校に来たとか、連絡があったとか」
「あなたもいい加減しつこいですねえ。全く、毎度毎度あなたの相手をさせられるこちらの身にもなってほしいくらいだ」
今日もサルマンは当直だった。
朝、欠伸を堪えながら学校の門の前に立った時、彼は盛大に悲鳴を漏らした。早朝の靄の中、門のすぐ横に亡霊の様にステファンの姉が立っていたのだ。その時のことを思うと、今でも顔から火が出そうだった。気位が高いサルマンのこと、たかが靄の中に人が立っていただけで自分が盛大に驚いてしまったのを恥じていたのである。機嫌悪く、彼は首を振った。
「さ、もうお引き取り願おうか。ここは家出少年の居場所を聞くところではないのでね」
「家出だなんて決めつけないでくださいませんか? 何かの事件に巻き込まれてるのかもしれないのに」
「事件? それならもうとっくに騎士団が解決しているはずでしょう? 何の音沙汰もないということは、もう答えが出てるではありませんか」
アイリーンは顔を俯けた。
ここに来てももはや何の情報も得られないことは、分かりきっていた。しかしここ以外にどこへ行けと言うのだろうか。ステファンの友人は、ステファンの居場所を知らないらしいし、騎士団も今のところ何の情報も得られていない。アイリーンはこの学校以外に、弟がいそうな場所を知らなかった。ここ以外に、どこへ行けば――。
「い、いや、ぼ、僕じゃありませんから!」
「後ろめたいことがないのなら堂々としていたらどうだ」
その声は、遠くから聞こえてきた。廊下からだ。思わずアイリーンとサルマンは顔を見合わせた。
「ど、堂々? こ、こんな状況で堂々としていられますか!」
「ちょっと話を聞くだけじゃないか。すぐ済む」
「すぐ済む? も、もし間違いならあなたを訴えてやりますからね!」
「ちょっとお二人とも。ここは学校ですよ。静かにして下さい」
その声に、弾かれたようにアイリーンは走り出し、扉を力一杯に開けた。聞き紛うことない。絶対に弟の声だった。
「ステファン!」
「……姉上」
いくらか驚いたような表情の弟。アイリーンには、隣のオズウェルも、軍手の男も目に入らなかった。
「良かった……無事で」
「は、はあ……」
感極まっているらしい姉に、ステファンは強く抱き締められた。衆目の場でこのようなことは、思春期の彼にとって、些か気恥ずかしかった。だが、今回その姉の様子が何やらおかしいので、彼はそのまま大人しく抱き締められていた。
騒がしい廊下をいぶかしんで、教室からサルマンが出てきた。彼の視線はゆっくりアイリーンは通過した後、ステファンで止まった。驚いたかのように彼の顔は一瞬固まったが、すぐに口元に笑みを浮かべた。好意的な笑みでないことは一目瞭然だった。
「おやおや、随分早いお帰りで。早くも家が恋しくなったんだろう? ステファン君」
「は……? どういう――」
「家出……家出、だったの?」
心配そうにアイリーンが弟を覗き込む。
ここでもか、とステファンは半ば呆れながら首を振る。
「家出なんてしてませんよ。書き置き、残したでしょう?」
「書き置き?」
ポカンとアイリーンが固まる。それでようやくステファンにも合点がいった。どうして皆、自分の帰還を諸手を上げて喜ぶのか、姉が泣きそうになっているのか。
「姉上、僕は家出なんかしていませんよ」
言い聞かせるようにステファンは優しく言った。両手を彼女の背に回す。
「で、でも――」
「友達の厚意で、別荘に行っていたんです。僕が集中して勉強したいと言ったら彼が貸すと言ってくれて。家に書き置きを残したんですけど、何の間違いか、それは見ていないようですね」
「書き置き……。知らなかったわ。でも、本当に家出じゃないのね?」
「はい。家出をするくらい文句があるなら、直接言いますし」
「良かった……」
力が抜けたように、アイリーンはへなへなとその場に座り込んだ。どこかホッとしたような空気がその場に流れ出した。ステファンは困ったように姉を眺め、オズウェルは柔らかく彼女を見ていたその時。こそこそとオズウェルの拘束を抜け出そうとしていた男がいた。
「あ――おい!」
「悪いね、こっちにも生活がかかってるもんで、こんな所で捕まる訳にはいかないのでね!」
ここは二階だ。多少怪我はするかもしれないが、捕まるよりはマシだと、男は窓を開け、枠に手をかけた。しかしその瞬間、バンッと勢いよく窓が閉まった。手を挟まれ、彼は声にならない悲鳴を上げた。その様を目撃していたステファンは思わず同情した。
オズウェルさんもなかなか乱暴だな。痛そうだ。
しかしそんなことを考えていたが、窓を閉めた真犯人は、オズウェルではなかった。そこには、腕を組んだサルマンが立っていた。オズウェルは役を取られたとばかり、居住まいが悪そうにその後ろでぽつんと立っていた。
「見覚えが、ありますねえ……」
サルマンは地を這うような声で呟いた。今までに見たことのないその姿に、ステファンは呆気にとられた。
「あなたがかけているその眼鏡、本当にあなたのものですか……。いや、聞くまでもない。絶対に違う、そうでしょう?」
「……っ」
「だってあなたがかけているその眼鏡は、特注品のそれだ、そうでしょう? なぜ私がそんなことを知っているか? それはもちろん、それを特注したのが他の誰でもない、この私だからに決まっているでしょう?」
無表情だったサルマンは、次第に般若のような顔になってきた。その勢いのまま、男に飛びかかる。
「そういえばあなたっ、よくよく見れば、あの日学校の点検に来たと言ってきた人じゃないですか! よくもまあそんな嘘で私を騙したもんだ、ああ腹立たしい!」
ぐしゃぐしゃとサルマンは頭を掻きまわしたが、その彼に、アイリーンは声をかけた。
「ちょっと待ってください。あなたがこの人を引き入れたんですか?」
「そ……」
サルマンは言葉に詰まったようだ。しかし他に言い逃れできそうになく、仕方なしに頷いた。
「そう、なりますねえ。それが何か?」
「開き直らないでちょうだい! 私やステファンを泥棒扱いした癖に」
「怪しかったんだからしょうがない」
「しょうがない……!?」
「だってそうでしょう。本当にね、とんだ茶番に付き合わされたものだよ。あなた方姉弟二人にはね。なんだ、誘拐だ事件だと騒ぎ立てていたくせに、結局ただのすれ違いだったじゃありませんか」
今度はアイリーンが詰まる番だった。それを言われたら返す言葉もなかった。
「ステファン君、君、国立学校へ行きたいそうだね?」
「は、はい」
急にサルマンに鋭い目で見られ、ステファンは戸惑いながらも頷いた。サルマンの口元がニイッと弧を描いた。
「今回のこの騒ぎはなかなかの規模だったねえ。騎士団も動いたことだし。そうなると、君の素行にも問題があると言わざるを得ない。このままじゃあ、国立学校への推薦も取り消しになるかもしれないね」
「なっ――それとこれとは話が別では!?」
アイリーンは拳を握った。どういう経緯でステファンとの入れ違いが発生したのかはわからないが、しかし弟の経歴に傷がつくようなことは我慢ならなかった。もともとは自分が騒ぎ立てたせいだ。責は自分にあると思っていた。
一方でサルマンは、想像通り姉が食いついて来たので、内心ほくそ笑んでいた。どこか勿体ぶった様子で口を開く。
「ま、そこまであなたが言うのなら、考えないでもないんですが。そうですねえ……ほんの少しばかりの心づけさえ貰えれば、私としても今後、良い方向に考えることができるんですがねえ」
サルマンは別に、金が欲しい訳ではなかった。しかし、貧乏学生であるステファンに、己の惨めな境遇を嘆かせてやりたかった。
この世は金が全てだ。金が無ければ地位もない。地位が無ければ良い仕事も昇進も得られない。そして、金が入って来なくなる。そんな悪循環が、死ぬまで続いてしまう。
ステファンを見ていると、まるで昔の自分を見ているようで、腹立たしかった。まだこの世の表面しか見ていないからそんな瞳ができるんだ。穢れを知らないからそんな純粋にいられるんだ。
しかしサルマンは失念していた。この場に、騎士団長オズウェルがいるということに。
……ひょっとして、この人は馬鹿……なのだろうか。堂々と俺の前で賄賂の話をするなど。
あまりのサルマンの堂々っぷりに、オズウェルは声をかけることすらも躊躇われた。が、さすがに場の雰囲気も悪くなってきたので、そろそろ仲裁に入ろうと考え始めていた。しかしいよいよ口を開こうとしたところで一歩遅く、ステファンに先を越された。――先ほどから何の役にも立っていないオズウェルだった。
「あ、別に大丈夫です」
ステファンのその返答は、何とも簡潔なものだった。
「……は?」
その場の誰もが呆気にとられるのは当然のことで。
聞こえなかったのかと、ステファンはもう一度繰り返した。
「推薦。別にいりません」
「ちょ……君、何を――」
「もともと僕は国立学校を目指してこの学校に入ったんです。努力はしてきたつもりです」
「だからってねえ、あの学校に入るのがどれほど大変か、君は知らないからそんなことを言えるんだ! 知ってたらそんな甘いこと、言えるわけが――」
「もし落ちたら、それが僕の実力なのかも。いや、こんなこと言ってますけど、僕だって推薦が取れるならそうしたい。そっちの方が絶対に安全ですし」
「ほ、ほら、そうだろう? だからここは大人しく私の言うことを――」
「でも、やっぱり嫌です」
サルマンの言う推薦は、いわゆる裏口入学のようなものだった。この学校に在学中、どれだけ教師に媚を売れるか、お金を包めるか、そしてそれなりの家柄であるか。その熾烈な争いを勝ち抜いた者――教師に気に入られたものだけが、自分の望む学校への推薦を貰うことができた。
優等生で、一応貴族でもあるステファンは、教師たちから一目置かれていた。彼自身、教師たちの言動の端々から、きっと自分を推薦して貰えるのだろうという予想もしていた。
苦学生であるステファンには、失敗が許されなかった。そのことを考えると、何も知らない顔をして、推薦を貰っていた方がいいのではないか、そう思ってもいた。
しかしいざサルマンから推薦を渋る言葉を聞いた時、肩の荷が下りた気がした。もしも推薦で国立学校へ行ったならば、そのことが一生自分の身に重くのしかかることだろう。それを考えると、心から安堵の息が漏れた。そうなってようやく、ステファンは自身の思いに気付いたのである。
「僕を応援してくれる家族、友人のためにも、僕は頑張りますよ、自分の力で」
「…………」
「お騒がせしたみたいですみませんでした。この通り、僕は元気ですので。国立学校を目指して、勉強も頑張ります」
「…………」
「姉上、行きましょう」
「え、ええ……」
後ろ髪引かれるらしい姉を引っ張りながら、ステファンはさっさと歩き出した。オズウィルと、空気のようだった軍手男も後に続く。
そして、廊下にはサルマンだけが残された。彼は、ステファンが去った後をいつまでもいつまでも見つめていた。
「何でそんなに純粋なんだ……?」
思わず声が漏れる。
サルマンには、さっぱり分からなかった。
しかしすぐにハッとした。さっぱり分からないが、今一つだけ分かることがある。それは何より。
「眼鏡えぇぇ! 取り返すの忘れたあぁぁっ!」
その叫びは、学校中に響いた。もちろん、丁度校門を出ようとしていたアイリーンたちにも。
「……行ってくるか」
「こちらから出向くことないのに。向こうに騎士団に来させればいいんじゃない?」
「そんな訳にはいかない」
拗ねたように唇を尖らせるアイリーンに、オズウェルは苦笑を浮かべて言った。
「ほら、お前も来るんだ」
「ひえっ……」
ビクつきながら男はオズウェルに付き従った。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、なかなか忙しい人たちだった。
「ありがとう!」
思い立ったようにアイリーンは声をかけた。オズウェルはゆっくりゆっくりと振り返る。
「よかったな」
もっとガミガミ言われるとばかり思っていたアイリーンは拍子抜けだった。しかも、それ以上何を言うでもなく、オズウェルは男を引きずったまま再び学校へ向かった。
どこか驚いたようなアイリーンと、そんな彼女を見るステファン。何かを悟ったような彼は、小さくため息をつくと、そっと姉を引っ張った。
「もう行きましょう。早く家に帰りたいです。今日は疲れた」
「あ……ええ、そうね。でも本当に良かったの? 推薦蹴っちゃって」
アイリーンが心配そうに言う。彼女は、ステファンの学校の実態を知らなかった。ステファン自身も、その推薦の内実を、入学してからニールに聞いてから知った。俺は国立学校に興味ないからいいけど、ステファンはちょっとだけ頭に入れてた方がいいんじゃないか?と。その話を聞いた当初は、自分は何をどうすればいいのか、半ば混乱もしていた。しかし今は自身を持って言える。推薦のために動くことは、自分には全く必要がないことだと。
「あれ、もしかして僕を信用してないんですか? 僕の実力じゃ、国立学校には受からないと?」
「べ、別にそんなこと言ってないじゃない! ただ、私達のせいで、ステファンが苦しい立場になったらと思うと……」
「そんなこと、気にしなくていいですよ」
ステファンは言い切った。
「サルマン先生に言ったことはすべて事実ですから。自分の実力で受かって見せます」
「ステファン……」
「それよりも、僕はどうして今回のことが僕の家出ということになったのかが不思議でなりませんよ」
「え?」
「騎士団まで頼る大事になっちゃって……。そもそも、僕が書いた書き置きはどこに行ったんです? テーブルの上に置いていたはずですが」
「テーブル……?」
言われてみて、アイリーンは思い出してみる。あの日のテーブルのこと、あの日子爵家で起こったこと……。
「あ、そう言えば、あの日、ウィルドがテーブルにお茶を零していて……。でも、紙なんて……あ」
刹那、気が付いた。
そう言えばあの日、あのテーブルに、やけにべたべたに濡れた紙があった。何なのこのゴミは、と、さして深く考えることなくゴミ箱に投げ入れたが、もしや、まさか、それがステファンの言う書き置き……?
見る見るアイリーンの顔は色を無くしていった。
アイリーンは嘘が苦手であった。そのことは、ステファンも重々承知している。
「今回のこと、皆に迷惑をかけたんですから、それなりの反省をしてもらわないと、ですね」
「……ですね」
冬の寒さだけではない。
確かにアイリーンは悪寒を感じた。