第十二話 姉の噂を頭痛に病む

69:弟の観察


 たまには一人で考え事でもしてみたいと、ステファンは雑踏を気の向くままに歩いていた。家に帰ればウィルドやら姉やらが騒がしいだろうし、特に気に入りの場所が無い彼にとって、一人で落ちつける時間は、当てもなく一人で歩き続けることだった。考えながら歩いていても、ステファンは人々の波を器用に縫って歩くことができる。その特性を活かして、彼は思う存分、悩みながら歩き続けた。しかし、まだ日も暮れていない時分、早速出鼻をくじかれるように、前方に人だかりができているのが見えた。

 このような騒ぎを見かけた時、ステファンの頭に始めに浮かぶのは、やはり姉のことだった。何かやらかしていないか、また騎士団のお世話になっていないかなどと、彼の心配は尽きない。しかしさすがに今回の騒ぎには姉は一枚かんでいないようで、ステファンはホッと胸を撫で下ろした。

「あー、待って待って。ここからはちょっと立ち入り禁止でお願いしまーす」
 一体何事だ、と好奇心に従って前の人を押しながら進んでいく野次馬たち。

 姉と違って事なかれ主義のステファンは、その列に参加するつもりはなかった。家族のだれも騒ぎに関わっているわけでもなし、自ら首を突っ込む意味もない。何よりあの中には、今一番顔を見たくないオズウェルがいるかもしれないのである。絶対に彼には会いたくないなと思いながら、ステファンはささっと騒ぎとは反対方向に歩き出した。――が、すぐにその足も止まる。全ての噂に過敏になっている彼の耳が、その声を拾ったからである。

「そう言えば、あの噂は本当かねえ」

 ――噂。
 何事かとステファンが考える暇もなく、井戸の周りの女性たちは続ける。

「ああ、団長と子爵令嬢の噂?」
「あたしも聞いた聞いた。婚約してるんだって」

 誰と誰が婚約!?

「何でも、団長さんの母親に反対されてるんだってねえ」
 その母親どこから出てきたんですか!

「駆け落ちの計画も立ててるんだって」
 仮にそうだとして、何であなたが知ってるんですか……。

「あたしたちなんかはまだいいけど、若い子たちにとっては発狂もんだねえ。市井の娘たちにとって団長さんは憧れだったから」
 ほんの少し前までは男色疑惑があったのに、よく言いいますね!

「子爵令嬢に団長は勿体ないって話だよ? あんないい男」
 逆です逆!

「そうだ、そう言えばちょっと前まで噂されてた団長の男色疑惑は? あれ、結局どうなったのさ。副団長とどうのこうのって話だったけど」
「ああ、全くのデマだったらしいね。副団長にはれっきとした恋人もいるし、彼とはただの友人関係だとか。あまりに団長に女の影が無いからそんな噂が流れたんじゃないかねえ。ほら、そんな時に子爵令嬢との夜会事件があっただろ? 一気にその噂は収束しちまったってわけ」
「なるほどねえ」

 つまり、団長の男色疑惑が晴れたのは、全て姉上のおかげだと!
 ぐぬぬ、とステファンは歯ぎしりした。オズウェルの方は、姉との噂のおかげで男色疑惑も晴れ、かつそれまで敬遠気味だった女性も彼に群がるようになるという良いこと尽くしなのに、姉にとっては何一つ良いことがない! 団長を狙う女性からは散々な言われようだろうし、もともとあった噂に更に男たらしというものまで付け加えられる始末!

 誰もそこまでは言ってない、と今の彼に突っ込んでくれる者はいなかった。

 何てことだ、といよいよステファンは頭を抱えた。
 確かに姉は傍若無人だし自分勝手だし我儘だし我が道を行く人だし、何より後先考えない人だ。彼女のことを良く知らない人からすれば、とんだ高飛車女だと誤解されても仕方がない。しかしそうであったとしても、あることないこと尾ひれを付けながら、面白おかしく噂するのは間違っている。それを聞いて傷つくのは、紛れもない当人なのに。……いや、やっぱり姉上は傷つきそうにないな。それどころか、鼻で笑いそうだ。いや、怒るかな。私とあの人、いったいどこが恋人同士に見えるのよ!と。

 容易に姉の怒っている様が想像できて、ステファンはふっと笑い声を漏らした。
その声が聞こえたわけではないだろうに、彼女の中の一人が、不意にこちらを振り返った。どうやら視線を感じたらしい。彼女は不思議そうにこちらを見つめている。ステファンはすぐに目を逸らした。

 言ったところで、何になる。
 アイリーンの弟が、姉の噂について口論していたと、どうやら二人の障害はオズウェルの母親だけでなかったと、更なる噂が蔓延るだけだ。

 ステファンは、そう自分に納得させると、思いを押し込めるようにしてその場を後にした。

*****

「ただいま」
 ステファンはすっかり疲れ切って帰宅した。あれこれと考え過ぎて、知恵熱でも出てしまいそうだった。
 しかし残念ながら、子爵家には彼をそっとしておいてくれる者は誰一人としていなかった

「兄様、何とかして……」
 彼が居間に入ると、すぐにエミリアとフィリップが駆け寄ってきた。

「どうしたの?」
「母様が、さっきからずっと怒ってる」
「姉上が?」
「ああ、もうステファン! 良い所に!」
「いったい何の騒ぎですか」

 今度はアイリーンまでもがいそいそと駆け寄ってきた。弟を座らせる間もなく、彼女は勢いよく捲し立てた。

「また! ……ああ、ううん、じゃなくて、私の買い物袋が盗まれたの! ちょっと目を離した隙によ? あー悔しい!!」
 キーッと金切り声をあげながら、アイリーンはグルグル部屋の中を歩き回る。ステファンとしてはうんざりとした顔だったが、話を聞いてやらない限り、彼女のこの奇行は止まりそうにない。ため息をつきそうになるのを必死で堪えながら、彼は椅子にゆったりと座った。

「盗まれたのは袋だけですか?」
「そんな訳ないでしょう!? 今日買物したもの全部入ってたの! きっと今頃犯人の家はシチューだわ。だってもろにシチューの材料を買ってたんだもの! 牛乳にサツマイモ、玉ねぎに人参!!」

 あまりに大声で叫び続けたせいか、ようやく彼女にも限界が来たようで、疲れ切った様にソファに倒れこんだ。うつ伏せになったそこからは、くぐもった奇声がなおも聞こえてきた。

「姉御、大丈夫ですか?」
 エミリアが心配そうに彼女を覗き込んだ。
 姉がここまで取り乱したのは初めて見たかもしれない。いつも誰が相手でも飄々と躱しているアイリーンだが、それだけ物……いや、金に対しての執着が強いのだろうか。

「大丈夫……じゃないわよ。もう一体誰なのよ。ちょっと目を離しただけじゃない。ちょっと疲れたから荷物を置いて噴水に腰かけてただけじゃない。いったい私に何の恨みがあってこんなこと……!」
「そう言えば、先日無くした財布も、あれから見つかってないんですか?」
「ああ……あれね。あれはもういいのよ」

 途端に苦虫を噛み潰したような表情になった。

「今はとにかく腹の立つシチュー泥棒!」
「早い所もう諦めた方が身のためですよ。とにかく今は夕ご飯です」
「ああ、そうよね、今日の夕ご飯……」

 再びアイリーンが両手に顔を埋めた。

「ああ、ごめんなさいね、結局何も買って来られなくて。もう驚いて腹が立って悲しくって、新しく買うのも面倒だったのよ……。今日はもう適当に済ませましょう。家にある残り物で。私も手伝うわ」
「……いえ、姉御はゆっくりしていてください。今日はそんなことがあって疲れたんですから」
「そんなわけにはいかないわ。今日の夕ご飯が残念なものになるのは、すべて私のせいだもの。手伝わせて」
「……わたしの口からハッキリ言わせたいんでしょうか、姉御は」
「……え?」

 アイリーンが固まる。エミリアはこれでもかというくらいにっこり微笑んだ。

「いつまでも隣でグダグダされながらの料理はごめんですわ。お腹が空いたので、集中して料理させてください」
「……はい」

 エミリアはそれだけ言うと、さっと身を翻してキッチンへ入っていった。残されるは、さらに落ち込んだ様子を見せるアイリーン。フィリップは、いつの間にか居間から逃げ出していた。もう姉の愚痴を聞くのはうんざりなのだろう。ため息を凝らえてステファンは姉に近寄った。

「騎士団……騎士団にでも行ってみようかしら。盗難届……」
 何やらアイリーンが不穏なことを言いだした。ステファンはもちろん慌てた。この上更に噂を抱えるようなことがあってはならない! 今はまず噂の元を絶たねば。

「騎士団に行ったら笑われてしまいますよ。たかがシチューごときで盗難届を出しに来たって」
「……でも、盗難は盗難だわ。このままじゃ私の腹の虫がおさまらないもの」
「……明日僕が行ってきますから、それで我慢してください。姉上、忙しいんでしょう?」
「え……でも、いいの?」
「仕方ないです。今回だけですからね」
「助かるわ! これで犯人が捕まればもう言うことないわね!」

 目に見えてアイリーンは喜んだ。しかしステファンは心の中でほくそ笑む。決して騎士団には行ってやらないと。自分から騎士団との接点を増やす馬鹿はいない。