第十一話 恋は理性の外
65:祭りの夜
「行ってきまーす」
元気よくアイリーンに声をかけ、ついに最後の一人も出て行ってしまった。彼女はこの大きな家に一人きり。それは四人も弟妹がいる彼女にとって、なかなかに珍しいことだった。
「はあ……」
今日は待ちに待った花祭りだ。街は色めき立ち、恋人や友人、家族で祭りを楽しむ者がわんさかいた。にもかかわらず、アイリーンはこの家に一人きり。
祝祭日なので、今日は家庭教師の仕事も洋裁の仕事もなかった。完全たる休日である。にもかかわらず、アイリーンにはやることが、やるべきことが、一つもない。
「外、ぶらぶらしてみようかしら」
そんな案が出るくらいには、彼女は大分暇していた。
しかし外に出たからと言って、どこか向かう先がある訳でもない。今日に限って洋裁店は閉まっているし、ちょっとした小間物店でも覗こうかと行ってみれば、そこもやはり閉まっている。祭りだとは言えど、どこもかしこも浮足立ち過ぎだとアイリーンはぷんぷん怒りながら道を行く。しかし行けばいくほど、次第に屋台が立ち並ぶ通りに近づいているようで、人も多くなってくる。当然、彼らには連れがいて。独りぼっちでこんな所にいる自分が惨めになってきた。
「……いえ、別に私は一人でいるわけではないわ。好きで一人でいるの。好きで一人で祭りに来ているの。だっていつも子供たちのお守ばかりやってきていたんだもの。たまには一人の時間も良いんじゃなくって?」
誰に言い訳しているのかはわからないが、とにかくアイリーンはただ真っ直ぐ歩き続けた。財布を持ってくるのを忘れたので、美味しそうな屋台に釣られても、それを買うお金がない。恨めしい視線を送ることでそれらの誘惑に打ち勝っていたアイリーンだが、ふと路地裏に人の影を見たような気がして、立ち止まった。半歩下がって覗いてみる。思わぬ知り合いの後ろ姿を目にし、彼女の表情はきっきに明るくなった。
「ま……!」
マリウスさん、とその後ろ姿に声をかけようとして、彼女ははたと止まる。彼に隠れるようにして、小柄な女性が寄り添っていたのである。その距離は、どう見ても恋人のそれで。
くるっと身を翻すと、アイリーンは一目散にその場から逃げ出した。
別に悔しくなんてない。別に悲しくなんてない! そもそもなんだ、見回りするべき騎士が、あんな所でいちゃいちゃと!
眉間にしわを寄せ、脇目もふらずに走る彼女に、思わず道を開けない者はいない。今の彼女に、死角はないように見えた。
が、それもただの時間の問題。彼女が曲がり角に差し掛かった時、丁度反対側からも同じようにして走っていた男とぶつかった。彼が持っていた食べ物が勢いよく宙に投げ出される。
「てんめえ……前向いて歩きやがれ! 邪魔なんだよ!」
無精ひげを生やした恰幅の良い男だった。顔を真っ赤にして怒鳴りつける。それで気が済んだわけではないだろうが、しかし男は急いでいるのか、そのまま先へ行こうとする。しかし黙っているアイリーンではなかった。腰に手を当て、挑戦的な目で睨み付ける。
「はい? それはお互い様でしょう。あなただって走ってたんだから」
決して自分が悪いとは認めないアイリーン。たまたま、たまたま向こうも走っていたので救われたが、そうでなかったらどうするつもりだろうか。ここにステファンがいたならば、そう思ってため息をついたはずだ。
「それにほら、一体どうしてくれるつもり? 折角の私の一張羅が台無しじゃない」
アイリーンがやれやれと己の服を指さす。思わず男も、その周りの野次馬たちも、黙って彼女の服を見やった。そしてすぐにひくっと口元を引き攣らせた。
「いや……喧嘩売ってんのか!? それのどこが台無しだって? 俺の方がよっぽど台無しだ!!」
そう言われ、アイリーンと野次馬たちは、言われるがまま、彼の服に目をやる。――なるほど、胸を張って言うだけに、その有様は酷かった。淡い色の外套には赤いソースこびりつき、ズボンには何やら原形の留めていない物体がべったりと付着している。
「あらあら、そもそも手に食べ物を持って走っていたのはあなたでは? よくもこの惨状の主たる原因であるあなたが、そんなことを言えたものねえ」
外套からズボンにかけて散々な有様の男と、たかだか裾にソースが飛んだだけの女。難癖をつけられたのは女の方だとはいえ、この状況でよくそんなことが言えたものだと周囲の人間達は皆、目を丸くした。
「知るか! こうなったらこの俺がけじめ付けてやる! ちょっとこっち来い!」
「何よ、けじめをつけるのはこちらよ! 私が――」
「ちょっと」
控えめだが、逆らえないような声が割って入った。その声の主は、男の肩に手を乗せている。彼はその手を振り払おうとしたようだが、意外にも力が入っているようで、それは適わない。一人で勝手に真っ赤になっていた。
しかしそれも、その手の主を見て終わってしまった。自身の敗北を認めたかのように、徐々に体から力が抜けていって、終いには地べたに座り込んでしまった。アイリーンは二重の意味で驚いていた。何より、その主は、騎士団隊長オズウェルだったのだから。
「荷物を検めさせてもらう」
「いや……俺は、違う……」
「目撃者がいるんだ。諦めるんだな。盗った財布を出せ」
「くそ……」
諦めた様に、男は懐から財布を取り出した。オズウェルはそれを受け取ると、一人の騎士に渡す。被害者の元へ渡しに行こうと、彼はすぐに走って行った。
「レスリー、詰所に連れて行ってくれ。調書も頼む」
「はい」
手っ取り早く身柄拘束が終わり、男はオズウェルの部下、レスリーにひっ捕らえていった。見物客たちはというと、始めは予想もつかない事態の収拾ぶりに目を丸くしていたものの、男が潔く連れていかれたことで興が冷め、再び今宵の祭りを楽しみ始めた。後に残るは、酔いしれる様な祭りの熱狂とは断絶された、アイリーンとオズウェルの二の世界だけ。
「ところで」
一息ついたところでオズウェルは振り返った。その顔は呆れ返っている。
「お前はいったい何をやっているんだ……」
アイリーンは虚を突かれたように目を丸くした。なぜか自分が責められているような気がしたのである。不思議でならなかった。
「別に何もしていないわよ。向こうがぶつかってきただけ」
「それだけでなぜ往来で堂々と口論を繰り広げることになるんだ?」
「知らないわ。虫の居所でも悪かったんでしょう。というかそもそもね、私があの人を引き留めていたから捕まえられたんでしょう? お礼を言って欲しいくらいだわ」
「ああ言えばこう言う……」
「あら、それはこちらの台詞よ」
埒が明かない。
瞬時にそう判断すると、オズウェルは黙りこくった。なかなかに最近、この自称淑女の扱い方を心得てきたオズウェルだった。
「でもあなたたちも大変よね。折角の祭りなのに見回りをしないといけないなんて」
「こういう日は大抵、浮かれて騒ぎを起こす輩が出てくるからな」
何かもの言いたげな瞳がアイリーンに向く。彼女はしれっと遠くを見つめた。
「本当ね。たかが祭りに何を浮かれているのかしら。か弱い淑女に喧嘩を売ろうなんて百年早いわ」
「本当にか弱い淑女はあんな喧嘩を買ったりなんかしない」
「別に私は買ったりなんかしていないわ。思ったことを言っただけ」
「…………」
別に彼女に弁舌で勝とうなどと思っているわけではないのだから、ここは落ち着いて。
オズウェルは深呼吸を繰り返した。そして話題転換に及ぶ。
「それよりも、マリウスを見なかったか? 報告に行ったきり戻って来ないんだが」
「あー……」
途端にアイリーンの目が泳いだ。そういえば、見た。恋人と密会していた。
しかしそれをこの隊長に言うべきか、アイリーンは思い悩む。
堅物そうなこの隊長殿に正直に言えば、きっとマリウスを連れ戻そうと躍起になるだろう。そうなると、彼とその恋人が気の毒でならない。マリウスはアイリーンの花を三十輪も買ってくれた当人である。一応恩義はある。それに、もしも自分のせいであの若き恋人たちが仲違いするようなことがあれば、それこそ寝覚めが悪い。
眉根を寄せながら、アイリーンは決断するに至った。
「知らないわ」
――ゆうに一分間悩んだ後。
「それで騙されるとでも思ったのか」
オズウェルは呆れた様な顔だ。アイリーンはムキになって言い返した。
「騙される? 何のことかしら」
「何か知っているんだろう。さっさと吐いた方が身のためだ」
「失礼ね。この私が嘘をつくとでも?」
二人はじーっと睨み合った。先に根を上げた――というよりは、アイリーンから情報を得ることを諦めたオズウェルは、ハーッとため息をついた。
「いや、知らないと言うのならいい。自分で探すまでだ」
オズウェルはアイリーンの横を抜け、さっさと歩き出そうとした。それも、先ほどマリウスたちがいた場所に。
アイリーンは慌てて彼の腕を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「何だ。もう用はない」
「そ、そんな釣れないこと言わないでよ。こっちにはあるの」
ふふふと慣れない愛想笑いを浮かべてみる。呆れを通り越して、オズウェルの顔には、むしろ哀れみの表情が浮かんだ。
「お前、相手が居ないのか」
「え?」
「そういえば弟たちもいないな。そうか、この祭りの中、一緒に楽しむ相手が居ないのか……。それは知らなかった」
「あ、の……何か勘違いしてらっしゃる? 別に相手が居ない訳では――」
「じゃあそいつと祭りを楽しめばいい。俺は先を急ぐのでな」
なおもアイリーンの手を振りほどき、歩き出そうとした。
「あっ、駄目、そっちは――!」
咄嗟に彼女はオズウェルの腕を掴んだ。強引にひっつかみながら、くるっと身を翻す。
何で私がこんな目に!
そうは思いながらも、恋人とゆっくり逢瀬もできないマリウスが気の毒で、今の彼女にはこうすることしかできなかった。
「その……突然私のお相手に用事ができたらしく、今一人なのよ。一緒に行かない?」
「俺には仕事が……」
言いながら、オズウェルはアイリーンはの腕を離そうとする。より一層彼女は腕に力を入れた。
「一緒に見回ればいいじゃない、ね? 私、今あちらに行きたい気分なの……。一緒に行きましょう」
「我儘だな。どっちでもいいだろう。こっちの見回りはまだ――」
「良くない! 私先ほどそちらは一通り見たの!」
「一人でか」
「違います!」
騎士団隊長と子爵令嬢が腕を組んで歩いている。
その様が、またもや既存の噂に拍車をかけることになるとは言うまでもなかった。