第十一話 恋は理性の外
62:カモになる人々
「は……花……。花は、いりませんか……?」
声が尻すぼみに消えていく。普段ウィルドを叱る以外に大声など出す機会が無いアイリーン。このような衆目の場で声を張り上げるのが、無性に恥ずかしかった。
そもそも淑女とは、基本的に楚々としているものだ。決して、決してこんな所で声を張り上げるものではないわ……!
しかしそう言い訳をして見ても、それをそのまま本日の雇い主であるアマリスに言えるわけもない。仕方なしに、尻すぼみに声を上げるしかないのである。そんな彼女を、時に不審そうに、時に驚いたような顔で通り過ぎていく通行人たち。未だ、花は一本も売れていなかった。
「く……!」
もしも……もしも、だ。もしも花が一本も売れずに惨めに花屋に帰って来たとしたら、彼らは何と言うだろうか。笑い飛ばしてくれるのならまだいい。もしも気の毒そうな、不憫そうな顔で、やっぱりアイリーンには接客は早かったようだねと言われた日には、もうどんな顔で会いに行けばいいのか分かったものじゃない。
ぶるぶると恐怖で震える自身を叱咤し、アイリーンはきっと顔を上げた。まだ勝負は始まったばかり。まだまだこれからだと、彼女は手押し車を思いっきり押した。
「あ……」
俯けた顔をあげた先。そこに何者かを捕らえ、アイリーンは思わずにんまりと笑った。その顔は、良いカモを見つけたとばかりに輝いていた。
「ジゼルちゃーん」
「あ……リーヴィス先生!」
ジゼルは嬉しそうに顔を綻ばせて、アイリーンに走り寄った。彼女はアイリーンの家庭教師先の子である。大人しく従順、しかも頭もいいので、全くと言っていいほど手のかからない良い子だった。しかも、彼女が旅行に行くときには、必ずと言っていいほど子爵家の人数分のお土産を買って来てくれるので、アイリーンはジゼルが可愛くて仕方が無かった。しかしそれとこれとは話が違う。教え子が大変良い子であるということと、花を買ってもらうカモにすることとは、全くの別問題なのである。
「こんにちは。ジゼルちゃん一人?」
「こんにちは! はい、今お友達と待ち合わせしていて」
はきはきと彼女は答える。その友達もろとも、アイリーンの餌食になるとも知らずに。
「先生は何していらっしゃるんですか?」
「ああ、私?」
わざとらしくアイリーンは聞き返した。
「知り合いが花屋をやっていてね、今はそのお手伝いで、花を売っているの。ほら、明日は花祭りでしょう? 恋するたち男性たちがこぞって買いに来るものだから、人手が足りないのよ」
「そういえばそうですね……。だからどこも浮足立ってるんですね。すっかり忘れていました」
「ジゼルちゃんは誰かにあげたりしないのかしら?」
これまたわざとらしくアイリーンは聞く。
「いえ、まだ……。それにまだ好きな人はいないから……」
「でもほら、可愛いのがたくさん揃ってるわよ?」
手押し車を一旦その場に置くと、商売の始まりだと言わんばかりにアイリーンは揉み手を始める。ジゼルは、色とりどりの花々を見ると、瞬く間に目をキラキラさせた。
「この花たちにはいろんな花言葉があってね。恋人に向けての愛の言葉や告白、親愛や情熱、何だったら友人や家族に向けての花言葉だってある」
「へえ……」
「確かに花祭りと言えば男性が女性に贈るもの、という風潮があるけれど、今にそれは覆ると思うわ。だって現に、もう既に女性から男性に花を贈る前例だってたくさんあるもの。今に家族や友人にも贈る人が増えてくると思うわ」
「……買います!」
気づくと、ジゼルは乗せられていた。アイリーンの口元がゆっくりと弧を描く。
「あら本当? それは嬉しいわ。どれがいいかしら」
「えっとですね……」
ジゼルはアイリーンから花言葉、誕生花を教えてもらいながら、ゆっくりじっくりたくさんの花を選んでいった。アイリーンは、心中で万歳を繰り返していた。
「ふふふ、随分買うのね。いったい誰にあげるのかしら?」
「友人と家族にです。親愛を込めて……」
ジゼルは嬉しそうにふふふと声を漏らす。そんな彼女を見ていると、何だかこちらまで嬉しくなってくる。
「行ってらっしゃい。頑張ってね」
「はい!」
軽い足取りのジゼルを見送った後、アイリーンは再び花売りを再開した。しかし行けども行けども人は一向に集まらず。花が売れなくては手押しる車も重いままだ。嫌な悪循環に立ち止まりそうになり、アイリーンは慌てて首を振る。やはり、いくら何でもこのまま惨めに帰還、という形だけにはなりたくない。せめて……せめて半分。半分くらいは売らなくては。
アイリーンの足は、自然とある一点に向かった。妻や恋人がいるはずの若い男性が多い場所。そんなの、一つしかない。
「こんにちは。ちょっと……えーっと、隊長さんか副隊長さんに用事があるのだけど、入ってもいいかしら?」
門番を得意の眼光で睨み付ける。彼はヒッと喉の奥で悲鳴を上げた後、ぶるぶる震えながら首を縦に振ってくれた。辛うじて、以前マリウスと親しげに話していたのを覚えてくれていたのかもしれない。
アイリーンは手押し車を押しながら、ずんずん詰所の中へ入っていく。我が物顔で肩で風を切って歩くその姿たるや、まさに武人のよう。
「マリウスさん」
そうして目に入った見慣れた後ろ姿に、嬉々と声をかけた。
「な……何でここに?」
マリウスの顔は引き攣る。アイリーンが押す手押し車と花の香りに、嫌な予感しかしなかった。
「この前はウィルドの件でお世話になりました。そのお礼と言ってはなんですけれど、遥々ここまで出張してまいりました」
「な……何を売りに?」
「花です」
「花……?」
どこか不審そうにマリウスは聞き返す。アイリーンは大きく頷いて見せた。
「ほら、もうすぐ花祭りでしょう? でも訓練で忙しいあなた達には、花を買っている暇はない。だからこそ私、遥々参った次第ですの」
「はあ……」
「忙しい身とは言えども、家に帰ったら愛する奥さんの一人くらいいるでしょう? いくら自分たちに祝日は関係無いからと言って、折角の行事を無視されたんじゃあ奥さんだって悲しむわ!」
「ええっと、それなんだけどね」
ポリポリとマリウスは頬を掻いた。言いづらそうに視線を逸らされる。
「凄く言いづらいんだけど、ここは独身寮でね、所帯を持った騎士たちはすぐに出て行くんだよ」
「……それじゃ、ここにうじゃうじゃいる騎士さんたちは、その――」
「うん、結婚してない」
気まずい雰囲気が流れる。アイリーンは咳払いをしてその空気を断ち切った。
「……これは失礼。じゃあ恋人は? これだけ若い男性が揃いも揃ってるのだから、恋人の一人や二人くらい――」
「うーん、どうだろう。若い女性っていうのはなかなか俺たち騎士の忙しさを分かってくれないらしくてね、始めは華やかな騎士団に憧れて交際を申し込む女性も、仕事に追われる恋人に次第に飽き飽きして別れを切り出してくるんだよ。その繰り返しに絶望して、もう一生独り身でいいって言う人も最近は増えてきて――」
「わ、分かりました、分かりましたから、もう十分ですわ」
何だか汗水流して訓練している騎士たちが哀れに思えてきて、アイリーンは無理矢理マリウスの言葉を遮った。しかしかといって花を売るのを諦めたかと言えば、そうでもない。
「マリウスさん、私は知っていてよ。あなたに恋人がいることくらい! ステファンから聞いたことあるんだから!」
「あ……俺? いや、確かにいるけど、でも花はこの前渡したばかりだしなあ。祭り当日は忙しくて相手ができないから、これで我慢してくれって」
「これで我慢してくれですって? 甘いわ!」
アイリーンはバシンと扇子を己の手のひらに打ち付けた。マリウスの頬が引き攣る。
「女性はいつだって寂しいものなのよ! 祭り当日が空いていないのなら、せめて当日まで毎日ずっと花を贈るくらいしなきゃ気持ちは収まらないわ!」
「そんなもんかなあ」
「そんなものよ! さあさ、祭りまであとわずかですけれども、その日までにマリウスさんは一体何輪の花を贈るつもりで? 一日一輪? まさか副隊長ともあろうお方がそんなケチくさいこと、お言いで無いわよねえ?」
「じゅ……三十輪、頂こうかな……」
「おーっほっほ! 毎度あり!」
もうマリウスは涙目だった。財布を出したはいいが、すぐにすっからかんになって返ってきた。今月は厳しくなるな、とがっくり肩を落として去って行った。
それからもアイリーンの猛攻は止まない。恋人がいない騎士をひっ捕まえても決して動揺せず、笑って言うのである。気になっている女性に渡せばいいじゃない、と。気になっている女性がいなくとも、姉や妹、母親に贈るのはどう、と更なる選択肢を増やすのである。アイリーンの手腕に、というよりは、彼女が醸し出す威圧感に、思わず首を縦に振ってしまう歳若い騎士たち、騎士たち……。彼らのおかげで、アイリーンの手押し車の花たちは、着実に姿を消していった。アイリーンも鼻高々であった。