第九話 嵐の後の静けさ
53:花の香り
「じゃ、誰からやる?」
ウィルドが嬉しそうに三人を見回した。てっきりウィルドが我先にとそりに乗り込むとばかりと思っていた皆は目を丸くした。
「僕は別に後でもいいんだけど……。ウィルド、やりたいんじゃないの?」
「いや、俺は後でいいや。フィリップは?」
「僕も後でいい」
「そっか……」
淋しそうにその顔が俯けられた、と思った次の瞬間、ウィルドの顔はまたすぐにあがった。その表情は、喜色に溢れていた。
「じゃあ仕方ないなー。一番乗りは師匠に譲ってあげるよ」
「……え?」
「良かったね、師匠。楽しんできてね。ほら乗った乗った」
「え……え……。ちょっと押さないで!!」
「行ってらっしゃーい」
ウィルドは笑顔でアイリーンを蹴飛ばした。アイリーンを乗せたそりは、始めは軽やかに、しかし着実にその速度を上げた。
「い……いやあああー!!」
アイリーンの姿が遠くなっていくとともに、ウィルドー!!と叫ぶ彼女の声もまた、小さくなっていく。大成功とばかり、ウィルドの表情は明るい。
「……後でこっぴどく怒られても知らないよ?」
「大丈夫大丈夫! 足の遅い師匠なんかに捕まる訳ないよ」
「……だといいんだけど。あ」
三人の視線の先で、アイリーンが転んだのが見えた。どうやら、坂の途中に石の出っ張りがあり、そこにそりが引っかかって投げ出されてしまったようだ。髪を振り乱しながら、アイリーンは転がる、転がる、転がる。それとともに、サーっとウィルドの血の気が引いていくのは当然であった。
彼女がようやく止まったのは、野原の遥か下。豆粒の様な小ささで、アイリーンがピクリと動いたのが見えた。
「……生きてるみたいだね」
「怪我が無くて良かった」
ステファン、フィリップが胸を撫で下ろす一方で、ウィルドはじりじりと後ろへと避難し始めていた。もちろん、ものすごい勢いで駆けあがってくるアイリーンから逃げるためである。何時もの足の遅さはどうしたと問いたくなるくらい、彼女は素早かった。ものの数分で三人の元へとたどり着いた。
「へ……へへ、師匠、豪快だったね」
恐怖を通り越して、ウィルドはもはや吹っ切れた後だった。ニヤニヤと笑いながらアイリーンにそう声をかける。が、彼なりに警戒しているのか、その距離は遠い。アイリーンもニコニコと笑いながら彼に近づく。ウィルドはその分離れる。しかし彼女も更に近づく。
「ね、ウィルド、このまま逃げるつもり? 別にあなたがそうしたいのなら、別にいいんだけれど、でも私はいつまでも追いかけるわよ?」
「う……」
アイリーンの執念深さは、この数年、身を持って経験しているつもりだった。一瞬、ウィルドは躊躇ってしまった。しかしその一瞬が命とりだった。
澄ました顔でアイリーンはウィルドに近づくと、その足を引っかけた。案の定ウィルドは草原に尻餅をつく。続いて、アッと思う間もなく、彼女はそのままウィルドを坂道へ向かって転がした。
「ちょ……ちょっと師匠!?」
「私と同じ思い、してみる?」
三日月の様に微笑むアイリーンと目が合った、と思った次の瞬間、ウィルドはくるくると回転した。
青、緑、青、緑……青空と野原。ウィルドの瞳は、その二つを交互に映し出した。始めは制御できない恐怖に叫んでいたものの、次第にそれは歓喜の声に変わっていた。
「ウィルドには……逆にご褒美だったみたいですね」
ステファンが同情したように呟く。ウィルドは何でも楽しみに変えてしまう、ある意味厄介な存在だ。仕置きのつもりが、彼にとっては真逆の作用をもたらしたようで、姉が気の毒だった。しかし対して傍らのアイリーンは、そっと笑みを浮かべた。
「そろそろかしら……」
「うえー!! 何だよこれ!」
不気味なアイリーンの呟きの数秒後、ウィルドが情けない声を上げた。
「すごく臭い……」
先ほどまでの嬉しそうな表情とは一転、すっかり意気消沈しているようだ。やがてその転がりは止まり、ウィルドはとぼとぼと肩を下ろして野原を上がってきた。
「臭い……?」
言われてみてステファンはようやく気づく。すぐ傍ら――主に隣の姉から漂う異臭に。
「え……っと、姉上?」
「なあに、ステファン」
アイリーンは弟に笑みを向けた。それは、今着々と彼女から距離を取っている弟に対する非難の目の様にも見えた。
「何か……臭うのですが」
「そうね、きっとこれのせいだわ」
言いながらクルッと回って見せた。スカートがはためき、太陽に反射して緩やかな金髪が煌めく。――こびりつく茶色の何かと共に。
「それは……何かの排泄物ですか?」
更にステファンが距離を取る。ついでに近くにいたフィリップの腕も取って自身の方へと引き寄せる。フィリップは拒まなかった。
「ええ、そうみたいね。せっかくの自慢の金髪が台無しよ」
「まだ顔じゃないだけマシじゃんか! 俺なんかほっぺたについちゃって――」
「お黙り!」
憤慨するウィルドをアイリーンは一喝した。しかし、そのすぐ後、彼の何とも情けない有様を見て彼女はすっかり機嫌を良くした。アイリーンは髪だけだったのだが、ウィルドは洋服やらほっぺたやら酷い有様だった。
「ししょー、酷いや! 師匠のせいで俺の一張羅が……!」
「あら何て有様! ちゃんと自分で洗濯なさいね」
「師匠がやったんだろ!?」
「あら、私も同じ目に遭ったのだけど? 私はそれをやり返したまでだわ。目には目を歯には歯をと言うでしょう?」
「う……」
悔しそうにウィルドは俯く。
「私、近くの小川で髪を洗ってくるわ」
そんな弟に、ようやく彼女も溜飲が下がったのか、やれやれと首を振ってそう宣言した。
「ウィルドは行かないの?」
「んー、俺はいいや。面倒だし」
ウィルドはそう言ってにっこり笑った。それはある意味予想通りだったが、しかし兄弟たちが更に彼から距離を取ったのは言うまでもない。
「ウィルド、しばらく僕らに近づかないでね」
「は? 何でだよ!」
その理由に気付かないのは、当の本人だけだった。
*****
アイリーンは、森を抜けたところにある穏やかな清流の元を訪れていた。先ほどはウィルドの惨めな姿を見て清々したつもりだったのだが、水面に映る自分の姿をいざ目の前にしてしまうと、再び沸々と怒りが込み上げてきた。
「本当に失礼な子よね! 女の子の髪は命なのに」
正確に言えば、アイリーンの髪に糞を付けたのはウィルドではないのだが、しかし怒りで頭がいっぱいになっている彼女は、怒りの矛先を彼に向けるしか昇華の手段を持たなかった。
アイリーンは川べりに腰かけ、上の方で緩く結っていた髪を解いた。さらっと長い髪が緩やかにうねるが、それとともに異臭が彼女の鼻孔をくすぐり、途端に嫌な気分になる。
「っはあああ……」
盛大なため息をついていると、後ろから草原を踏みしめる音が聞こえてきた。兄弟に詰られたウィルドがようやくやって来たのかと、半ばあきれた思いで振り返ったアイリーンは、目を丸くした。ウィルドには似ても似つかない、オズウェルがいたのだから。
「何、どうかしたの?」
「いや別に。酷い有様だったなと」
「嫌な人ね。私を笑いに来たの?」
「まあそんな所だ」
答える気力もなくして、アイリーンはそのまま自分の髪を洗うことに熱中することにした。
「ったく、匂いはどうにもならないのかしら」
冷たい水に髪を浸し、軽く擦ってみる。
しかしそのおかげで汚れは取れたとしても、臭いは取れない。
「〜〜っ! 何もかも全部、ウィルドのせいよ! 帰ったら覚えておきなさい!」
怒りのあまり、アイリーンは完全にオズウェルの存在を忘れていた。しかし彼の方も、別に彼女の作業を邪魔しようなどというつもりは毛頭ない。ただ、何の気なしに、傍らの青い花を手折り、ふっと自身の顔によせてみる。かぐわしい香りが鼻孔をくすぐり、思わず笑みを浮かべた。
「ああ……もう」
アイリーンは未だ臭いと格闘していた。髪だけでなく、手にもその異臭がついたのではないかと躍起になって手を洗っていた。そんな彼女に、オズウェルはゆっくりと近づく。
「何よ」
気配に気づいた彼女は不機嫌そうに眉根を寄せたが、構わない。さっと傍に膝をつくと、流れるような動作でアイリーンの髪に花を挿した。それはもう、彼女が毒づく暇もないくらい。
「っ……」
言葉もない様子でアイリーンは目の前のオズウェルを凝視した。何が起こったのか、さっぱり分からなかった。
「え……」
「これなら臭いもなくなるんじゃないか」
「な、何、何のつもり?」
「じゃあな、俺はもう行く」
「ちょ、ちょっとこれどういうことよ! ねえ!」
慌てて声をかけたが、当の本人は、後ろ手にひらひらと手を振るばかり。ついには困惑しきったアイリーンだけがその場に残された。
「は……え、なに」
髪に挿された花に手をやる。確かにそこからは、爽やかな花の香りが漂い、先ほどまでの嫌な臭いはかき消されている。
「…………」
できるだけ無心になってアイリーンは髪を手早く結った。まだ多少濡れていたが、構わない。何かしていないと、頭が混乱してしまいそうだった。
結い上げてしまうと、再び彼女の手が止まり、思考が停止してしまう。
この花どうしようというのが今の彼女の専らの悩みだった。
自分はもう髪に花を挿して浮かれる様な年頃の娘ではないし、もしそんな恰好をして見なの前に出て行ったらからかわれること必須――特にウィルド。
かといって、折角厚意で髪に挿してもらったのをむしり取ってしまうのは――。
そこまで考えた時、アイリーンは思い切りぶんぶん首を振った。
何を考えているのだろうか、自分は。もともと彼に何と思われようと、自分には関係ないし、そもそもそんなことくらいで彼が気にするとも思わない。先の行動にだって、意味はないのだから。
「姉上……?」
その時、不意に近くで声がした。ステファンだ、と思った瞬間、すぐに空笑いを浮かべた。
「な、何……? どうしたの?」
「いえ、髪を洗うだけにしては、やけに遅いな、と。何かあったんですか?」
「い……いいえ、何もなかったわ。ちょっと休憩していただけなの。そろそろ戻りましょうか」
何もなかった風を装い、アイリーンは立ち上がった。しかし訝しげな弟の追及は止まない。彼は、オズウェルがこちらから出てきたのを見ていたのである。
「……その花は?」
「へ!?」
アイリーンは明らかにすっとんきょうな声を上げた。その勢いのまま、花をもぎ取った。
「あ……いえ、なかなかさっきの臭いが取れなかったから……。花を挿してみたらどうかと思ってしてみただけよ。でもやっぱり似合わないから駄目ね、止めるわ」
「別に似合わないという訳では……」
どことなく寂しそうな姉の雰囲気にのまれ、ステファンは気まずげに言葉を足した。しかし彼女が考えを変えることは無かった。
「もう行きましょう。そろそろ日も暮れるわ」
ずんずんと歩き出し、皆の元へと向かう。置いてけぼりにされそうなステファンは、慌てて走って追いついた。
ウィルドたちももうそり滑りはやっていないようで、皆で協力して後片付けをしていた。オズウェルもエミリアと共にシートをたたんでいる。アイリーンはおずおずと近寄った。振り返った彼の視線がアイリーンの手元、右手に持っている青い花に向けられたような気がして、彼女は僅かにたじろいだ。
「ごめんなさいね、その……」
言い難そうに言葉を濁らせる。しかし当のオズウェルはきょとんと見上げた。
「何の話だ?」
「は……」
「そうだ、まだ言ってなかったな。俺の怪我ももう随分良くなってきたし、そろそろ騎士団の方へ帰ろうかと思っている。長いこと世話になったな」
「え、隊長さん、もう行っちゃうの!?」
「療養には少々長すぎたくらいだしな」
「そんな……。寂しくなるね」
「世話になった」
オズウェルはわしゃわしゃとウィルドの頭を撫でた。ウィルドは嬉しそうに顔をほころばせた。
「そういえば、何か話でもあったのか? そんなに思い詰めて」
不意に自分に矛先が向いたので、アイリーンは慌てた。不思議そうに彼女を見やるオズウェルには、アイリーンの髪から花が外されたことについて、全く気にした様子はない。何だか拍子抜けした気分だった。
「……何でもないわよ」
それだけ言って背を向けたアイリーンは、やはりどこか怒っている様に見える。オズウェルはいよいよ頭を掻いた。
「全くもう……男どもは察しが悪いわね」
エミリアはぼそっと呟いた。彼女もまた、ステファン同様、オズウェルが森から出て行くのを見ていたのである。何かを悟ったような表情で呟く妹を見過ごせず、ステファンは首をかしげた。
「どういうこと?」
「それくらい自分で考えなさいな」
妹に足蹴にされ、ステファンはすごすごと引き下がった。
「兄様、そういう方面には疎いものね」
「はあ……?」
「あ……でもそれは姉御にも言えるか」
忘れていたとばかりエミリアは呟く。それはそれは嬉しそうに。
*****
子爵令嬢アイリーンは、ネチネチとしつこい。
その噂が流れ出したのは、果たしていつの頃だったのだろうか。そして、どこの誰が流した噂だったのだろうか。
定かではないが、もしかしたら、彼女の一番の被害者である、子爵家の子供たちが流した噂なのかもしれない――。
「ぐっ……ごほっ……!」
「み、水を……」
ピクニックも終わり、帰って来たばかりのその日の夕食にて。
苦しそうな声は、二つ上がった。
「おーほっほっほ!! ざまあみやがれ!!」
そして楽しそうな声も一つ。
「し……師匠! 酷いや、俺何もしてないのに!」
「何もしてない? あらウィルド、頭は大丈夫? つい先ほど私に対して散々なことをしてくれたばかりじゃない」
「師匠だって俺に仕返ししたんだからおあいこだろ?」
「ごめんなさいね、それだけじゃ気が済まなかったの」
「ひっ、酷いや……」
ウィルドは涙目になって、もうそれ以上何も言わなかった。今度はもう一人、激しくむせていたオズウェルが反撃を開始した。
「じゃあ俺はどういうことなんだ! なぜ俺のパンにも外れを――」
「あなたのは……何というか、ウィルドのおまけ?」
「理不尽過ぎる……」
やいのやいの繰り広げられる激しい口論に、今宵の子爵家の食卓は、また一段と騒がしいものとなった。