第二話 去る姉弟跡を濁す

05:社交界へ


 貴族が社交界に出向くのに用いるのは、ほとんどが馬車だろう。ドレスやタキシードは歩きにくいし、何より馬車で優雅に赴くのがそれだけ財力の誇示にもなる。
 加えて貴族ともなれば、一家に一両馬車を持っている所がほとんどだ。持っていなかったとしても、馬車を一夜借りるくらいの財力はある。――しかしそんな中、一夜借りるだけのお金もない……というか、節約したい一家がここにいた。言わずもがな、貧乏子爵家である。

「ステファン、その侯爵家とやらには、一体いつ着くのかしら?」
「後半分ほどの距離です」
「……そう。早めに出ておいて正解だったわね」

 二人が家を出たのは夕刻。今はもうすっかり辺りは闇にまぎれていた。――まだまだ距離があるのか、とアイリーンは泣きそうだ。

「姉上、足は大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。こんなこともあろうかと、靴は二足持ってきていたの。夜会用のと普段用のものをね」

 満足げにアイリーンは言ったが、すぐに口を閉じる。まだまだ距離は長いと聞いて、うんざりする自分と、どこかホッとする自分に気付いたのである。

「……少し、緊張するわね」
「姉上でも緊張するのですか?」

 意外そうにステファンが尋ねる。アイリーンは大きく頷いた。

「そりゃそうよ。何て言ったって、夜会なんて久しぶりなんだもの」
 思い起こすのは子爵家がまだ栄華を誇っていたあの頃、両親に挟まれ、毎夜夜会や晩餐会に出席していたあの時。まだ小さいステファンは、家でお留守番ばかりしていた。

 弟が生まれたばかりの頃、アイリーンは両親をその小さい弟に取られるんじゃないかと冷や冷やしてばかりいた。そんな中、夜会は、唯一両親を独り占めできる機会だった。あの頃が、少し懐かしい。

 しかしそんな気分を振り払うべく、アイリーンは重々しく口を開いた。

「ステファン、あなたのことだから大丈夫だと思うけど、しっかりね。ダンスの時相手の令嬢の足は踏まないように、特定の令嬢と踊り過ぎないように、かといって他の紳士方との会話を怠らない様に」
「はい、分かりました」

 ステファンは従順に頷く。しかしすぐに顔を上げた。

「では姉上、僕からも」
「なに?」
「あまり揉め事は起こさないようにお願いします。後始末が大変ですから」
「うっ……」

 それを言われると、返す言葉もない。しかしアイリーンがただ黙っているわけもなく、すぐに口を開いた。

「そ、それくらい分かってるわよ。というか、私そんなに揉め事起こしてないわ。心外よ」
「姉上にとっては大したことではなくとも、周りから見たら十分に噂の種になるようなことなんです。気を付けてください」
「……はい」

 姉の威厳が台無しだわ、とアイリーンは心の中で愚痴った。

*****

 侯爵家には、まだ人もあまり揃っていない頃に辿り着いた。子爵家はあまり身分が高くないので、早めに到着できて良かったのかもしれない。

 アイリーンの足はもうへとへとだったが、それを微塵にも見せずに陰で夜会用のヒールに履き替えた。普段用の靴は、手に持って会場に入るわけにもいかず、草むらにそっと置いてきた。泥棒の心配はしていない。あのようなボロボロの靴を盗む人がいたらその神経を疑うからだ。……少し虚しいのは気のせい。

 会場へ入った瞬間、料理の良い匂いがアイリーンの鼻孔をくすぐった。もう料理は用意できているらしく、あちこちに散らばるテーブルに所狭しと並べられていた。……豪華に吊り下げられた天井のシャンデリアよりも素敵な大理石の床よりも、すぐに料理に目が言ってしまうのが貧乏人の性というか何というか……。
 隣のステファンをこそっと見やれば、キラキラ輝くシャンデリアを感心したように眺めていた。自分と本当に血が繋がっているのか、少し疑ってしまった。

 招待客はその後も続々とやって来た。入口から少し離れた場所で彼らの様相、家格をそれぞれステファンと共に値踏みしながら始まりを待った。

 夜会は、主催者側の挨拶と共に始まった。侯爵家とはあまり面識はなかったが、ステファンはその息子と少し関わり合いがあるらしい。二人で軽く挨拶をしに行き、再び隅の方へ移動した。あまり目立ちたくないアイリーンの意見である。

 招待客の挨拶が終わると、緩やかにダンスの音楽が始まった。始めに主催者が踊り、その後に続々と身分の高い者たちが踊っていく。

「姉上、では踊りましょうか」
 皆が段々落ち着き始め、互いの団欒に勤しむようになってきた頃、ステファンがぽつりと言った。

「……私はいいわよ」
「折角の機会ですよ?」

 そっとダンスフロアを見渡す。――最初の頃とは違い、皆、あまりダンスには注目していないようだ。

「……分かったわ」
 正直に言って、アイリーンは緊張していた。衆目の場でダンスを踊るなど、いつ振りだろうか。修練は怠ったつもりはないが、しかし大衆の前で踊るのと一人で練習するのとでは越えられない壁がある。

 二人は隅っこで踊り始めた。手と手を取り合って初めて、彼の背が随分伸びていることに気が付いた。まだ自分の背には届かないが、しかし追い越すのも時間の問題かもしれない。嬉しいような寂しいような気になりながらもダンスに集中する。ステファンのダンスはゆったりしながらも、洗練されていた。

「――姉上、お上手ですね」
「……ステファンのリードが上手いからよ。学園で習ったの?」
「はい、そうですね。学園では勉学に留まらず、マナーやダンスまで教えていただきますから」
「……そう。あの子たちも、できたら入れた方がいいのかしら」
「難しいですね。あの学園は例えば奔放なウィルドには肌に合わないだろうし、フィリップだと更に。でもエミリアなら人付き合いも上手だろうし、逞しく生きていけそうです」
「そうね……」

 そっと思案しながら考え込む。長らく切り詰めてきた生活のおかげで、貯金はそれ相応に溜まっている。このお金で彼らを学園に入れることができたら、それはそれで素晴らしいことだろう。良い縁組のためには、教養やマナーを取り入れた方がいいに決まっているし、仕事も良いものが選べるかもしれない。しかしアイリーンは子供たちとの関係性が自分でもよく分からない。可愛い弟妹達とはいえ、彼らの人生を勝手に決めてよいものかどうか……。彼女は未だ計りかねていた。

「そろそろ曲も終わるようですよ」
「ええ、分かったわ。素敵なリード、ありがとう」

 スッと彼が隅のテーブルに案内してくれる。有り難くそれに従いながら、ホッと息をついた。

「何か飲み物を持ってきましょうか?」
 せっかくの夜会なのに、この弟は先ほどから姉に対して世話焼きだ。何だか面白くなってきて、ふふっとアイリーンは笑い声を漏らす。

「そんなに甲斐甲斐しくしなくてもいいのよ? ほら、級友たちの元へ行ってらっしゃい」
「しかし……」
「分からない人ね。若い女性がいつまでもパートナーと一緒に居たらダンスのお誘いを受けられないでしょう?」

 まだ名残しそうにしていたが、渋々と言った様子で彼は頷いた。

「はい……。では行ってまいります」
「ええ」

 彼の後ろ姿をアイリーンはそっと見守る。見ると、彼は迷うことなく幾人の少年の元へと向かった。彼らは同じ学園の級友なのか、ステファンがやって来たのを見るとにこやかに彼を迎えた。小突いたり小突かれたりと、意外と仲の良さそうな雰囲気を感じ、アイリーンはホッと胸を撫で下ろした。

 子供たちに勉強を教えたり、買い物をしたりと、ステファンの自由時間は弟妹達以上に少ない。きっと学園でも授業が終わるとすぐに帰ってきているのだろう。そんな中、級友たちにつれない奴だと思われていないか少し心配だった。しかしそれも杞憂だったようだ。何より、姉に見せる笑顔とはまた違ったそれを見ることができ、嬉しかった。

「あ……あの」
「何かしら」

 そんな微笑ましい中、突然傍から声がし、咄嗟にアイリーンは鋭い眼光を送ってしまった。そのせいか声をかけた若い青年はビクッと肩を揺らした。終いには、いえ何でもないです〜と情けない声を上げながら逃げ帰ってしまった。
 ついいつもの高飛車な性格が顔を出してしまうようだ、とアイリーンは僅かに落ち込む。これでは誰もダンスに誘ってくれない。

「よし」
 小さく呟くと、アイリーンは手始めに近くで固まっている女性陣の集まりに近寄ってみる。家格の近い者同士で集まっているのか、和やかな雰囲気を感じる。しかしアイリーンが近寄ってくるのに気が付くと、自然と皆固い表情になり、口を閉じがちになった。

「ごきげんよう」
 そんな雰囲気に屈さず、アイリーンはにこやかに話しかける。

「よろしければ、私も入れてもらってもいいかしら?」
「え? ええ……」

 近くにいた令嬢がビクッと肩を揺らしながら頷いた。周りの令嬢たちも、伝染したようにこくこくっと頷く。

「ありがとう。嬉しいわ。私も久しぶりに社交界に顔を出すものだから、緊張していて」
「あ……確かに、最近はあまり見かけませんものね」

 こくりと躊躇いがちに他の令嬢が頷く。ぎこちない場の雰囲気に怯まず、アイリーンは口を開く。

「突然ですけど、私の噂について何かご存じ?」
 隣の令嬢がひゅっと喉の奥で悲鳴を上げた。何だか自分が悪者になった気分で、少し悲しくなった。

「ああ、別に問い詰めようという気はありませんのよ? ただどんな噂が立っているのか気になっただけなんです」
 ついには令嬢の膝ががくがくと揺れる。何をそんなに怖がっているの、と問い詰めたいが、更に怯えられそうなので断念する。

「ただの好奇心なんです。教えてくれません?」
 仕方がないので、左隣の令嬢に話しかけた。彼女もヒッと喉の奥で悲鳴を鳴らした。しかしなおもアイリーンが見つめると、観念したようにおずおずと口を開いた。

「お気を……悪くなさらないでくださいね」
「ええ、それはもちろん」
「あの……リーヴィス子爵家は貧乏、だとか」
「ああ、そんなこと。それは事実だから仕方ないわ」

 うんうんとアイリーンは頷く。ホッとしたようにその令嬢は胸を撫で下ろす。

「じゃあ今度はあなた、何か知らない?」
「へ!?」

 まさか自分に振られるとは思っていなかったのか、真向いの令嬢は飛び上がった。

「う……あ、あの」
「遠慮しないで。聞きたいのよ」
「……アイリーン様は子供嫌い、と」
「ああ、それも仕方ないわね。この前のお茶会でやらかしてしまったし」

 こくりと頷く。

「他にはもうないの?」
 目が合った令嬢に尋ねてみる。先の二人の令嬢同様、始めは戸惑った様子を見せたが、なおも熱心に見つめるアイリーンに根負けして渋々口を開いた。

「子爵家へ足を踏み入れた者はもう二度と帰って来られない……とか」
「…………」

 アイリーンは思わずきょとんとした。その間、数秒。気づくと、彼女は堪え切れない笑い声を上げていた。

「え、え? どうなさったんですか?」
「いえ……違うの」

 笑いながらアイリーンは首を振る。
 確かにすべて事実だ。子爵家は貧乏だし、自分は子供が嫌い。しかし最後の言葉がつぼに入ってしまった。

 ――子爵家へ足を踏み入れた者はもう二度と帰って来られない。
 確かにそれはそうだ! 家を乗っ取ろうとした親戚の者たちはこてんぱんにやっつけたし、迷い込んできた子供たちはそのまま家に住む始末。傍目から見れば、帰って来られないというのはまさに事実!

「大丈夫ですか?」
「ご……ごめんなさい。ちょっと面白くって。自分たちがそんな風に言われてるなんて思いもよらなかったわ。驚いた」

 アイリーンが明るく笑い出したことで、気が楽になったのか、令嬢たちは次第に零れるような笑みを見せ始めた。場が少しだけ和やかになったと感じた。

「あの……アイリーン様」
「何かしら?」

 目尻に溜まった涙を拭きながら聞く。

「ずっと気になってたんですけどそのドレス、自分でお作りになったんですか?」
「ええ、それはもちろん。何しろ貧乏子爵家ですから」

 真面目な顔で言うと、誰かがぷっと噴き出すように笑った。慌ててその令嬢はわざとらしい咳払いで誤魔化したが、もう遅い。

 アイリーンは遠慮なく笑い始めた。それに感化されたように、他の令嬢にもさざ波のように明るい笑いが広がった。