第八話 高飛車の功名
42:報告
アイリーンとモリスは、ドレッサムの応接室に移動していた。珍しくドロシアが気を利かせてくれたのだ。込み入った話もあるだろうと。いや、正直な所アイリーンはすぐにでも先ほどの返事を取り消しにしたい所なのだが。
「いやはや、承諾してもらえてよかったです」
嬉しそうに笑うモリスを前に、そんな言葉は吐けない。つい先ほどセルフィを追い出した時の迫力は、今や影も形もない。またいつもの様に人の良さそうな笑みを浮かべ、ほわほわとした印象を醸し出している。演劇のことになると性格が豹変するのか……とそう適当に結論付けた。
アマリスといい、ドロシアといい、このモリスといい……。自分の周りには変わった性格の大人が集まる傾向でもあるのかとアイリーンは頭を抱えたくなった。類は友を呼ぶという言葉は頭からすっかり消え去っていた。
「さて、具体的に演劇についての話に入って行きたいのですが。改めて自己紹介させてくださいね。私、ラヴィール通りの劇場で月一で公演を開いています、支配人のモリスと申します」
「はあ……」
知っています、とむげにはできず、曖昧に頷いた。
「今度開かれる公演に、ぜひアイリーンさんも出演していただきたく、誘わせていただいた所存です」
「はあ……」
「あなたから溢れるその気品……。それを表現してほしいのです」
「…………」
何をどう言えば良いのか、さっぱり頭が追い付かず、アイリーンはしばし混乱した。
「あ、あの、ちょっと待ってくださいね。演劇? 私が?」
「はい。安穏とした私どもの演劇の……いわばスパイスになってほしいのです」
……すぱいす?
「アイリーンさんにやってほしい役はステイシーという王女の役です。もちろん、ステイシー役はもともとこちらの方でも用意しておりました。しかしどうも……しっくりこない。確かにステイシーは脇役。それほど拘らなくともよい。そう思って一時期は目を瞑っていました」
「…………」
「しかしあなたの一挙一動を視野に入れた今日、この方でなくてはいけない、そう思ったのです。あなたにしか、できない役なのです」
一挙一動。モリスの目に留まるような、そんな大それた行動果たして自分はしたのだろうか。振り返ってみても、思い当たる節はない。
「あの、ちょっと待ってくださいね。そもそも私、全くの素人なのですが。演劇なんて……生まれてこの方、やったことありません」
「それについては安心してください。ステイシー役は台詞もあまりなく、登場するのも序幕と終幕だけ。私があなたに求めるのは気品や自信です。ありのまま演技してくだされば結構です」
「は、はあ……」
「それでですね――」
モリスの話はまだまだ続く。いまいち実感が湧かないアイリーンは曖昧に頷きながら、ただひたすらこの時間が早く過ぎ去ることを願っていた。
*****
「あの……その、皆さんに、お知らせがあります」
皆で夕餉を取っている間、アイリーンはずっと上の空だった。ステファンたちはちらちらと姉に視線をやりながらも、彼女に声をかけることは無かった。そうして皆で食器を片付け終え、団欒でも始めようかというこの時間、ようやくアイリーンは口火を切る決心をしたようである。珍しく神妙な顔をしている姉に弟妹達は興味を持った。皆の視線が彼女に向く。
「その、私、劇に……出ることになりました」
「…………」
ポカンと口を開ける。それもそのはず、アイリーンだって当初モリスからこの話を聞かされた時は冗談かと思ったのだから。始めに正気に戻ったのはステファンだった。
「あの……劇、とは?」
「ラヴィール通りに大きな劇場があるでしょう? そこで月一で公演をやっているモリスさんという方に、劇に出ないかって」
「姉上が?」
「ええ」
「劇に?」
「ええ」
「…………」
小難しい表情をして弟妹達は黙り込む。何だかアイリーンの方が恥ずかしくなってきた。
「あの……私だって信じられないんだからね? 演技するだなんて。でも、あの、ほんのちょっとした脇役らしいし、私にもできるかなーって……」
「何か……想像できない」
「ですよね」
アイリーンも釣られてうんうん頷く。あれから半日、ずっとそのことについて考えていたが、未だになぜ自分が抜擢されたのかがさっぱり分からない。
「でもすごいです!」
エミリアのキラキラした瞳がアイリーンを見上げる。そんな目で見られては、彼女も悪い気はしなかった。
「ま、まあね」
「どんな役なの?」
「王女役よ、王女役」
「王女様!? お姫様役ってことですか?」
「似合わねー……」
「何か言ったかしらウィルド」
「いえ何も」
アイリーンが鋭い瞳で睨み付けると、すぐにウィルドは黙り込んだ。
「じゃあじゃあ、素敵なドレスとかも着るんですか!?」
「まあ……そうなるんでしょうね」
「素敵ですね……。すごく楽しみです」
エミリアはうっとりと両手を重ねる。しかしすぐにはたと正気に戻り、暗い顔になった。皆の視線が彼女に集まる。
「どうしたの?」
「あの……やっぱり、その劇って……高いんですか?」
「どうかしらね? でもラヴィール通りの劇って言ったら結構な大きさだものね。それなりに高くなるんじゃないかしら」
「姉御の雄姿、ちょっと見たかったなって……」
エミリアは寂しそうに呟いた。ようやくアイリーンも合点がいく。今の彼女たちに、四人分ものチケット代を払う余裕はない。
「で、でも……大丈夫! なんなら……その、ちょっとは奮発してチケット買ってもいいし?」
「姉上、四人ともなると結構な値段になると思いますよ」
「う……」
く、とアイリーンは詰まる。そんな彼女を一見し、ステファンは優しい表情で弟妹達を見回した。
「でもエミリアたちはそういう劇初めてだよね。僕は家で留守番してるから、良かったらみんなだけでも楽しんできて――」
「そんなに見たいなら私がここで演じるわ!」
弟の健気な声を遮って、姉はその場ですくっと立ち上がる。
「一人でも演じてみせるのが役者ってもんでしょう!」
「きゃー! 姉御かっこいい!」
「僕も楽しみにしてる!」
「皆、楽しみにしていてね!」
わーわーきゃーきゃー歓声が巻き起こる。
「あれ、聞いてますか姉上」
ステファンは寂しく呟いたが、もちろん聞く人はいない。ふうっと脱力して椅子に凭れかかった。真面目に話そうとしている自分が馬鹿みたいだ。
「なーんか」
ウィルドは頬杖をついたまま言葉を発する。小さな声なので、盛り上がっている面々には聞こえていない。ステファンにだけ聞こえているようだ。ウィルドも別に、皆に対して発声しているつもりはなかった。
「みんな盛り上がってるねー。劇って言われてもいまいちぴんと来ないけど」
「ウィルドは楽しみじゃないの?」
「だってよく分かんないしなー。俺昔からあんまりそういう娯楽とか興味なかったし、俺の家の近所にもそういうの無かったし」
ウィルドはぽりぽりと頬を掻く。
「ステファンは? 劇ってどんなの? 見たことあるんだろ?」
「うーん、あるにはあるんだけど、覚えてないっていうか……。両親と行った……ような記憶はあるんだけど、実はあんまり覚えてないんだよね」
「ふーん……」
女性陣にフィリップを加えたあちらさんは随分盛り上がっているようだが、こちら男性陣は全く。
「ま、どちらにせよ俺には分不相応かなあ……」
ウィルドはぽつりと呟く。耳ざとくそれを拾ったらしいエミリアは、意地悪く笑った。
「あれ、ウィルド、よくそんな難しい言葉知ってるね? ちゃんと学校で勉強してるんだ」
「当たり前だろ! 馬鹿にするな!」
「だってよく学校でウィルドが立たされてるのを見かけるもの。やんちゃばかりしてるんじゃない?」
「うっ……」
ウィルドが焦った様に詰まる。その目はちらちらとアイリーンに向けられる。彼女はにっこり小首をかしげた。
「どういうことかしら?」
「いや、別に……」
「学校で立たされる? 一体何をやらかしたらそんな状況になるんでしょうね」
「さあ、どうだろうねー」
くるり、とウィルドは踵を返してソファに逃げ込んだ。背の高いそれが彼の姿を隠す。
「あ、それで劇の話になるんだけれど」
アイリーンはぽんと手を打った。すっかり話が逸れてしまった。
「たぶん劇の練習は夜に入ってくると思うの。だから私が帰ってくるのはずいぶん遅くなると思うけど、心配しないでね」
エミリアとフィリップは嬉しそうに頷く。非日常的なことが始りそうでわくわくしているらしい。
「でも特にウィルド」
きりっとアイリーンの瞳がウィルドへ向けられる。が、彼の姿はソファが邪魔してこちらからは見られない。わざわざ回り込んだ。
「私の帰りが遅いからと言って、羽目を外さないように。ステファンがいつも見張ってますからね」
「へいへーい」
ウィルドはすっかりこちらに注意を無くし、間延びした返事を返した。目下興味は手元の図鑑にあるようだ。畑に新たに何か植えようと画策でもしているのかもしれない。
「……この前みたいに食用の花だけは植えないでね。心が折れるから」
「へいへーい」
再びウィルドの適当な返事が繰り返された。何だか彼の将来が心配になるアイリーンだった。