第五話 隣のバラは赤い

29:家族のようで


 膨らんだお腹を抱えてカフェを出るころには、外はもうすっかり日が暮れていた。昼とはまた違った賑わいの大通りを抜け、子爵家を目指す。カフェの前で別れるはずが、オズウェルが送っていくと言って聞かないので、お言葉に甘えることにしたのである。

 あのお喋りな夫人とその夫が去った後、一行は気まずい雰囲気の中、急いでありったけの物をお腹に詰め、のんびりと余韻に浸る間もなく出てきた。終始アイリーンが無言だったので、気を使ったのである。しかし彼女も彼女で、甘いものや夕食用のパスタを黙々とお腹に入れている間にすっかり機嫌は直った。貧乏な彼女に、食べ物は効果覿面だったようである。

 大通りの脇道は、比較的人通りは少ないものの、道自体が狭いので、一行は自然と二列になっていた。もちろん気が付くと口論になりそうなアイリーンとオズウェルは、それぞれ最後列と最前列だ。オズウェルの隣にはすっかり彼に懐いた様子のウィルドが並んだ。何となく悔しい気持ちでアイリーンは二人の背中を見つめる。姉の恨めしい視線に気づくことなく、ウィルドはオズウェルを熱い視線で見つめていた。

「隊長さんって身長高いよね」
「何だ急に?」
「え……いや、その」

 珍しくウィルドがもじもじしている。オズウェルは不審に思い視線をやる。

「肩車して欲しいな……とか」
「肩車?」

 思いもよらない言葉にしばし目を丸くする。しかし当の本人はどうも冗談のつもりではないらしく、熱心にこちらを見上げている。少しむず痒い思いを抱きながら、オズウェルはその場に膝をついた。

「乗れ」
「いいの?」

 自分から言ってきたくせに、ウィルドはどうも遠慮がちだ。普段の彼らしくない。オズウェルは苦笑した。

「食後の運動だ。気にするな」
「じゃ、じゃあ……」

 そーっと、そーっとオズウェルの肩に足をかける。両手をどこに固定しようかしばらく逡巡していたが、最終的には躊躇いがちに彼の頭に乗せた。

 ウィルドがしっかりと体を固定したのを感じると、オズウェルは一気に立ち上がった。同時にウィルドの視線も高くなり、彼は興奮したような声を漏らす。

「う……うわあ、高い! すごく高いね!」
 いつもより数段高い視線は、ウィルドの世界をも変えてしまったようだ。いつもより何もかもが鮮明に感じられる。何もかもが新鮮だし、何もかもが心に響いた。

「何よ、私の時はあんなに喜んでなかったくせに」
 二人の仲睦まじい姿を目にし、そうぐちぐちと文句を垂れるのはアイリーンだ。誘拐事件の時のことをまだ根に持っている……というよりは、いつもよりも無邪気にはしゃいだ様子のウィルドを目にし、オズウェルに嫉妬しているだけのようだ。

「姉御、ウィルドに肩車したことあったんですか?」
「ま……まあ、ちょっとね」

 わざわざ誘拐の時のことを蒸し返すまでもない。ステファンもいることだし。
 そう思ってアイリーンは言葉を濁した。エミリアの目がきらきら輝いているのは無視だ。肩車してもらいたいのなら、身長だけはやたらに高い隊長殿にしてもらえばいいじゃない、と彼女の心は荒れていた。

「兄様……」
 しかし、どうやら目の前の二人を見て憧れを抱く者はエミリアだけではなかったようだ。いつの間にかフィリップはステファンの隣に移動し、彼に声をかけていた。下を向いて、そわそわと手足を擦り合わせている。

「あの……」
 何も言わなくても、彼の言いたいことは分かる。何年兄をやって来ていると。ステファンは笑って跪いた。

「肩車、しようか?」
「うん!!」

 途端にパアッと喜色が広がり、フィリップはステファンに飛びついた。

「あ〜いいな……二人とも」
 チラッチラッと隣から視線を感じるのは気のせいではないだろう。

「……何よ」
「わたしも肩車……して欲しいな」

 ついに言った。エミリアが言った。しかしアイリーンはそれをむげに断る。

「嫌よ。淑女たるこの私が、肩車なんてできるわけないでしょう」
「でも」
「それにね、あなた今スカートでしょう? そんな恰好で肩車するなんてはしたない!」

 比較的論理的にアイリーンは責め立てる。このような誰が見てるとも分からない場所で、目立つことをしたくないという一心だった。しかしエミリアの方も負けてはいられない。子供には子供の武器がある。

「姉御の意地悪」
 ――何とも率直だった。しかしアイリーンのこめかみに青筋を立てるには十分だ。こちらは筋道を立てて断る理由を述べているのに、エミリアは何だ、たった一言で私の人格を否定するなんて!

「あーもう面倒ね! 分かったわよ、すればいいんでしょう?」
 結局悔し紛れに承諾するしかないのである。たった一言なのに、こちらが悪いことをしているような気にさせるエミリアのそれは強力だった。

「その代わり私がするのはおんぶですからね! 全く、こんな所で私を跪かせるなんて――!」
 結局のところ、彼女は外聞が気になるだけのようだ。

 ぶつぶつと言いながらしゃがみこむ。歓声を上げてエミリアはその背中に身を預けた。彼女の太ももをしっかりと支え、アイリーンは立ち上がる。ウィルドやフィリップよりは断然低いが、それでもいつもよりずっと高いその目線にエミリアは興奮した。

「姉御、ありがとうございます!」
「お、エミリアもやってもらったんだ」

 オズウェルに支えられたウィルドが近づく。エミリアは自慢げに胸を逸らした。

「いいでしょー。姉御にしてもらえるなんてこの先きっともうないよ!」
「残念でしたー。俺この前肩車してもらったばかりだもん」
「くっ……! で、でも、おんぶはしてもらったことないでしょ!?」
「何の何の。やっぱり肩車が一番だよ」

 なぜかウィルドは誇らしげに鼻の下を伸ばす。

「俺、この三人の中で一番高いしね」
「そりゃ背の高い人にやってもらえば誰でもそうなるでしょ」

 ステファンが鋭く突っ込む。しかし図に乗っているウィルドはそれすらも悪い風には聞こえないのか、ニヤニヤと彼に笑いかける。

「あはは、ステファン悔しい? 悔しいの? オズウェルさんに到底及ばず背ちっちゃいもんね!」
 無神経なウィルドに、ステファンはムッとしたような顔を見せた。

「……僕だってもうすぐ伸びるさ」
「一体それはいつのことになるんだろうね!」

 ……本当に無神経だ。

 その場の誰もがそう思ったが、誰も口には出さなかった。代わりに明日からのウィルドの悲運を悼む。おそらく根に持ったステファンに地味な仕返しをそれとなくやられ続けることだろう。

「何だか……家族、みたいですね」
 ふっとエミリアが呟く。その小さな言葉は、彼女を負ぶっているアイリーンにしか聞こえていないようだった。彼女はもちろんぎょっとする。

「な……何を言い出すの? エミリアまで変なこと言うの止めてくれない!?」
「ふふ、もしかして意識してるんですか?」
「やーめーて!!」

 前を歩く問題児たちに聞こえるのではないかと危ぶんでアイリーンは歩みを緩めた。もしこんな会話がウィルド辺りに聞かれたら嬉々としてからかってくるに違いない。しかし彼らはいつの間にか競争しようということになっているらしく、オズウェルとステファンは肩車したまま一列に並び、ウィルドの掛け声を待っている所だった。――あまり人がいないのが幸いだった。騎士隊長殿に何をやらせてるんだと苦情が出るところだ。

「ね、姉御。本当の所オズウェルさんのことどう思ってるんですか?」
「は、はい!? 一体何を聞くかと思えば――」

 意識をこちらに戻したところ、先ほどの空気がまだ続いてるらしく、アイリーンは慌てた。

「だって最近何かと一緒に居ますし」
「それは不可抗力でしょう!? 一緒に居たくているんじゃないわよ!」
「またまたー。本当はちょっと格好良いなって思ってたり――」
「しません! あのねえ、そんなことばっかり言ってるとどうなるか知らないわよ!?」

 言いながら、アイリーンはその場でくるくる回り出した。背に乗っかったままのエミリアに吐き気を催させるつもりだった。

「あはっ、あはは! 姉御いいね、これ! もっとやって!」
 ……しかし残念ながらエミリアにその手は通用しない。むしろアイリーンの方が疲れて地面にへたり込んでしまった。短い呼吸を繰り返すアイリーンにエミリアが呆れ、自分から降りた。何だか気の毒になって姉の背を撫でる。うう、とアイリーンは悔しげに息を吐いた。

 そんな下らないことをやっているうちに、もうすっかり前方の四人の姿は見えない。別に急ぐ用もないとアイリーンとエミリアは再びゆっくりと歩き出した。夕闇に紛れて互いの表情は見えない。

「エミリア。学校で、何かあったの?」
「……え?」
「最近、元気が無いように思えて」

 何度か口を開くような気配があったが、それも止む。

「……何もないです」
「そう」

 しばらく沈黙が続く。再びアイリーンが口を開こうとした時、どーんと小さな衝撃が来た。目を白黒させて下を向くと、小さなフィリップが抱き着いてこちらを見上げていた。

「……どうしたの? ステファンは?」
「途中でへばっちゃった」
「……あー、そういえばあの二人、かけっこ勝負してたわね」
「ウィルドが早く来いって言ってた。お腹空いたって」
「……あの子、さっき山ほど食べたばかりじゃない……」
「姉御がお持ち帰りの分持ってますもんねー。家に帰っても食べるに食べれないと」
「ちゃっかりしてるんだから……」

 ため息交じりにそう呟くと、三人は足を速めて帰路を急ぐ。もうそうは離れていない。すぐに地団太を踏むウィルドの姿と地に座り込んでいるステファン、余裕の表情を浮かべているオズウェルとが目に入った。……どうやら、かけっこの勝負は決まり切っていたようだ。

 若干哀れみの表情を浮かべてアイリーンがステファンに近づくと、ぷいっと顔を逸らされた。――ここは何も言うまい。

「遅いよー」
「何よ、どうせウィルドの目的はこっちでしょ?」
「うわー、待ってましたああ!」

 キラキラに輝いた瞳で、エミリアから荷物をお持ち帰り分の紙袋を奪い取る。

「本当ウィルドの頭の中って食べ物ばっかりね……」
「俺育ち盛りだからね! ほら、ステファンもちゃんと食べないと背伸びないよ?」

 ニヤニヤとウィルドは紙袋を押し付ける。可哀想に、満腹になった後の全力疾走はかなりきつかったようで、彼の顔色は真っ青だ。しかしそれが、ウィルドの無神経な一言に、今度は真っ白になった。

「……ウィルド」
 すくっと立ち上がる。年の割にはウィルドは大柄だが、それでもステファンには敵わない。

「そろそろ怒るよ」
 ウィルドはひっと喉の奥で悲鳴を上げた。

 ステファンは背のことに触れられると怒るらしい。

 その場の誰もがそのことを己の身に刻んだ。

「ご……ごめんってステファンー!」
「オズウェルさん、今日はどうもありがとうございました。僕はこれで失礼しますね」

 逃げる様にウィルドは家の中に入って行き、ステファンはというとにこやかに笑いながらそれを追った。
 後に残された一行は茫然としながら二人を見送った。先に我に返ったのはオズウェルだった。

「じゃあ俺はこれで失礼する」
 残りの持ち帰り分をアイリーンに手渡し、最後にその顔を見てふっと笑った。

「ひったくりを捕まえてもらったのは有り難いが、あまり無茶するなよ」
「――今日はありがとう」

 このまま黙って帰してはアイリーンの名が廃る。去ろうとするオズウェルを引き留めた。

「何だ改まって」
「みんなをがっかりさせたくなかったから、あそこへ連れて行って……お金も出してもらって、その、助かったわ」
「ひったくりを助けてもらった礼だ」
「…………」

 いくら礼だとはいえ、五人分の夕食分かつデザートかつお持ち帰り分の負担額は相当なものだ。普段はドけちなアイリーンはお金にはうるさい。

 しかしなおもお礼を言おうと顔を上げるアイリーンの目に、オズウェルの向こう側、ニヤニヤしたエミリアが映った。その口はゆっくり動く。良い雰囲気ですね、と。

「――そうよね、そうよね! 何せ私達ひったくりを捕まえたんだものね、お礼されて当然よ!」
 気づけばアイリーンは拳を振り上げ、そう力説していた。

「それに鞄を奪われてたのお婆さんなのよ! 礼を尽くすべき相手に窃盗を働くなんて怖い時代が来たものだわ。全く騎士さんたちは何をやっているのかしら!」
「……それはそれは悪かったな。またこのようなことが起こらないよう尽力に努めよう」
「そうして頂けると助かるわ!」

 オズウェルの額には青筋が立っている。それには見えない振りをし、彼を見送った。エミリアがそろそろと近づく。

「姉御ー」
 その顔は何かもの言いたげ。

「さっ、もう今日はさっさと寝るわよ。私は疲れたの!」
 誰に言うでもなくそう叫ぶと、アイリーンはさっさと家の中に入って行った。