第十八話 雨降って家固まる
119:変わらずに
もう何度と通った道のりだが、一人での行程となると、存外寂しいものだ。
アイリーンはこの日、一人で山登りをしていた。というのも、ちょうど今朝、フィリップに野イチゴ狩りがしたいと誘われたからである。
今年も、野イチゴの季節がやって来ていた。毎年、この時期は家族総出で野イチゴ狩りをするのが恒例だった。しかし、現在ステファンは国立学校にて勉学に励んでいるし、ウィルドは騎士になるため猛特訓、エミリアといえば、最近手芸に凝っているらしく、よく友人の家に遅くまで籠りっきりになっていた。残る者は、アイリーンとフィリップだけ。しかしこの二人も、それぞれ仕事やら学校やらがあって、なかなかゆっくり話す暇もない。つい一年前と比べると、子爵家の生活様式はすっかり変わってしまった。
……でも、それが悪いことだとは思わない。
いつか子供は大人になるわけだし、いつまでも同じままではいられないだろう。休日になるたびにステファンは家に帰って来てくれるし、ウィルドの方も、月に一度くらいは手紙を書いてくれるようになっていた。少々のもの寂しさはあっても、乗り越えていかねばなるまい。
……叔父も、時折ひょっこり顔を出すようになった。始めは少しぎくしゃくしていたものの、最近では冗談を言い合うくらいの気軽さは見せるようになってきた。
「……はあ」
ようやく最後の坂道を上りきった。いつもなら込み上げる達成感も解放感も、今回は影も形もなかった。代わりにうんざりとした疲労感だけが体に残る。
しかしすぐに彼女は首を振った。今日は久しぶりの休日だ。それに、いつまでもこんな様子じゃ、折角誘ってくれたフィリップにも申し訳が立たないわ!
伸びをしながら、アイリーンはきょろきょろと辺りを見回した。しかし、肝心のフィリップの姿は見えない。自分は仕事帰り、そしてフィリップは学校帰りにここへ集合する筈だったのだが。
「まだ来ていないのかしら」
そう呟いた時、ぶんっと何かが風を切る音がした。それは、どこからか途切れずに聞こえている。何かを振り回しているような音だ。アイリーンは不審に思ってその音に近づいた。
この山は、基本的に誰も訪れない。花畑や夕焼けといった名所がある訳ではないし、頂上に登るまでの道のりがきついのだから、誰が好んで登ろうとするのだろう。しかしその山に今、何者かがいる。
警戒していない訳ではなかったが、好奇心の方が勝った。何となく……この音は、ウィルドを彷彿とさせた。やんちゃなウィルドが、棒を振り回して、騎士ごっこをしているような、そんな光景――。
「…………」
だが、そこにいたのは本物の騎士だった。それも、警備騎士団団長である。真剣な表情で、何度も剣の素振りをしている。
騎士ごっこだなんて思って悪かったわ……。
少々アイリーンは申し訳ない思いだった。しかしすぐにはたとした。どうして彼がこんな所にいるのか――。
「誰だ!」
途端にアイリーンの思考は中断された。目の前に剣を突きつけられ、それでも冷静に状況判断ができる者がいるわけがない。
「な……って、危ないじゃない! 心臓が止まるかと思ったわ!」
「どうしてここに?」
そう問うオズウェルはひどく不思議そうだ。ゆっくりとした動作で剣を仕舞う。アイリーンはようやく息をつくことができた。
問題児ウィルドもいない毎日において、目の前の彼――オズウェルに街でばったり出会うことも少なくなってきた。だからこそ、少々懐かしくなって、アイリーンの胸に驚きとともに懐かしさが込み上げ、声をかけようとしていた矢先のこの所業。すっかり彼女はへそを曲げだ。
「それはこちらの台詞よ。あなたこそ、こんな所で何をしているの?」
「俺はウィルドに剣の訓練をして欲しいと言われてここに。子へ来る途中、ウィルドを見なかったか?」
「……いえ、見ていないわ」
答えるアイリーンは不満そうだ。しかしそれも当然、ウィルドは月に一度手紙を寄越す程度で、家になんて帰って来てくれないのに、どうしてこの人との訓練はする時間があると言うのか。
いや、さすがのアイリーンも、毎回家に帰ってこいだなんては言わない。弟たちにも事情や約束があるだろうし、そろそろ家族が面倒になってくる年頃かもしれない。何も、無理強いするつもりはない。むしろ、ステファンの方が心配になっていたところだ。休みになるたびに子爵家に帰ってくるステファン。あの子、ちゃんと友達はできたのかしら、と。
しかし……しかし、だ。ウィルドが友人と休日に遊ぶのはまだいい。元気でやっている証拠だ。でも……でも家に帰るよりも何よりも、この人との訓練の方が最優先ってどういうことよ!
アイリーンはジト目になってオズウェルを見やる。何かケチをつけてやりたくて仕方が無かった。
「こんな所で訓練するの? 詰所にも大きな訓練場があるでしょう」
私達の縄張りにどうしてあなたが、という意味が言外に込められている。しかしその嫌味に気付きもせず、オズウェルは涼しい顔で答えてみせる。
「ウィルドの方にもいろいろあるんだと。見習いになってから、周りにコネだコネだと言われて嫌気がさしたらしい。できるだけ俺と親密だということは内緒にしたいと言われた」
「コネ……。そんな風に思われてたの……」
初めて聞く情報だ。またもやこの団長殿から聞かされることになったなり、非常に屈辱的な思いだった。
むっつりと黙り込んだアイリーンを見て、オズウェルは何か変なことでも言ったか、と考えを巡らせるが、特に思い当たらない。すぐに諦め、話題を帰ることにした。
「家の方は落ち着いたか? ステファンが成人するとともに、手続きでてんてこ舞いだったんだろ?」
「……どうしてそれを?」
「ステファンから聞いた」
よどみなく答える彼に狼狽えるのは、アイリーンの方だった。
「ステファン……え? いつそれを聞いたの?」
「いつだったかな……。やけに深刻そうな顔で歩いている所を、俺が声をかけたんだ」
「…………」
数か月ほど前、子爵家を誰が継ぐかでアイリーンとステファンが揉めたあの時。口論の末、ステファンが屋敷を飛び出したその後。しばらくして帰ってきた彼は、どこかすっきりとした顔をしていた。それが、この団長殿と話した故のことだったとしたら。
……悔しい。非常に悔しい。
昔から、アイリーンはステファンから相談をされたことは無かった。異性の兄弟だから、相談しにくいと言うのもあるのかもしれない。それは分かっている。が、何だか自分の居場所が取って代わられたようで、恨みがましくオズウェルを見上げた。
どうしても彼をぎゃふんと言わせたい。その一心だった。
「……あなた、そんなに余裕こいていていいのかしら。私達の心配よりも、ご自分の心配をしたら?」
「……どういう意味だ?」
ただの出まかせではない。
アイリーンはふふん、と胸を逸らすと自慢げに言った。
「だってあなたには、以前から男色疑惑があるじゃない。普通の男性よりも婚期が遅れていたら、きっと男の人が好きだから結婚しないんだって思われること確実よ」
「何を今更……。あの噂は今や影も形もないだろう。お前とのあの夜会の噂が相当利いたらしい。おかげでこっちは女好きという不名誉な称号が与えられ、縁談はほとんど見送りに……。言っておくが、あの夜のせいで俺の婚期が遅れたと言っても過言ではないからな!」
オズウェルはぶつぶつ文句を言うが、対するアイリーンはきょとんとしていた。奇妙な沈黙の後、彼女はゆっくりと口を開く。
「……知らないの?」
「……何が」
普段の彼女らしくなく、遠慮がちな物言いだった。オズウェルは嫌な予感がした。
アイリーンの表情は、偉ぶっているわけでもなく、馬鹿にしている風でもなく……。ひどく、同情的だった。
「あなたの噂、再発してるわよ」
「…………」
オズウェルは押し黙る。頭が追い付かなかった。それでもアイリーンの無情をな声は続く。
「今度のお相手は王立騎士団第三隊隊長、ファウストさんらしいわ」
「…………」
顔を顰め、頭を抱えた。何故、よりにもよって。
「あり得ない。そもそもあいつは俺のことを嫌ってるんだぞ? そんな噂、たちようがない」
「私も詳しくは知らないけれど……。嫌よ嫌よも好きのうち……とか言われていたけど」
「…………」
「頑張って」
声にならない叫びをあげ、オズウェルはその場に座り込んだ。その様を見ていると、アイリーンも次第に可哀想になってくる。
ちょっと……やり過ぎたかしら。いえ、でも知らないよりはマシよね。どうせそのうちマリウスさんから面白おかしくからかわれるのだろうし――。
「お前だってな……人のこと言えないだろ」
少々優越感に浸っていたアイリーンだが、その一言で固まる。オズウェルの反撃開始だった。
「生憎、俺は男だからな。少々結婚が遅くてもなんとでもなる。でもお前は違うだろう? 女性の嫁ぎ遅れはきついぞ……。相手は限られてくるし、周囲からの憐れみの視線も痛い。嫁いだら嫁いだで、姑には足元を見られるだろうし、何よりその結婚相手が――」
「〜〜っ、もういい、もういいから!」
耐えられなくなってアイリーンは両耳を塞いだ。
分かっている、分かっていることだが、改めて面と向かって言われると、精神的にくるものがある……!
「これからが大変だな。見合い三昧になるんだろう?」
「――っ! あの子、そんなことまで言ったの!? 信じられない!」
結婚については、完全にアイリーンの弱点だったりする。歳を重ねるごとに優良な結婚相手は望めなくなっていくだろうし、しないならばしないで周囲からの視線も痛い……。そして何より、国に仕えることを目指しているステファンや、騎士になるため訓練しているウィルドの重荷にはなりたくない。未婚の姉がいつまでたっても屋敷でのらりくらりと暮らしている……なんて噂が立ったら、彼らにまで影響があるかもしれない。
「見合いはしたのか?」
再びオズウェルから尋ねられる。その頃にはアイリーンも落ち着いてきて、小さく首を振った。
「……まだよ。なかなかステファンのお眼鏡にかなう相手が居ないみたい。……あの子、理想が高すぎるのよ」
「理想……?」
オズウェルは不思議そうに聞き返す。
理想というよりは、姉の性格に合うだろう相手を探しているから、なかなか見つからないのではないか。それに、彼女の周囲には様々な噂が蔓延っている。それを物ともしない男性を探すのも一塩だろう。
これからのステファンの苦労を思うと、偶には彼の八つ当たりの対象になってもいいかもしれない、とオズウェルはふと思った。
「ま、頑張ることだな。結婚相手探し」
優越感に浸りきっているその言葉に、アイリーンが反応しないわけがない。
暑すぎるほどの昼下がりだが、その山奥には、男女が口論する声がいつまでも響いていた。