第十八話 雨降って家固まる

116:姉弟と叔父と


「おはよう」
 爽やかなラッセルの声に、アイリーンは固まった。思わずきょとんとした顔になるのも無理はない。まだ早朝だ。そんな時間に、あののんびりとした叔父が起きているなど、誰が予想しただろうか。その上、彼は眠そうな気配など微塵も見せず、爽やかに朝の挨拶を言ってのけた。負けてはいられまいと、アイリーンも欠伸を堪えてにっこり笑った。

「おはようございます。お早いんですね」
「何だか目が覚めちゃってね。ほら、仕事始めたから、朝も早いんだ」
「今日はお仕事あるんですか?」
「いや、今日は休みだよ」

 何となく、沈黙が続く。一応わだかまりは消えたとはいえ、長い空白の時を無かったことにはできない。ウィルド辺りがいてくれれば、いつの間にやら場が騒がしくなって、このような気まずい思いをすることはないのだろうが……。

 そんなことを考えながら、ラッセルはちらっとアイリーンを盗み見た。彼女はキッチンで紅茶を入れながら、ぼんやりと思案に耽っているようだ。幾度か話し出そうと口を開いたが、ついにラッセルの口から新たな話題が発せられることは無かった。代わりにコホン、と咳払いが出る。

「あの……アイリーン? すまないが、僕にもコーヒーを入れて――」
「あ、すみません。この家にコーヒーは無いんです」
「あ……そうですか」

 会話終了だ。ラッセルが落ち込んでいると、アイリーンは楚々と席に着いた。

「紅茶しかありませんけれど、こっちへ来て一緒に頂きませんか?」
「あ……はい、どうもありがとう」

 おずおずとラッセルはアイリーンの真向いの席に座った。

「頂きます」
 こくり、とゆっくり喉を鳴らしながら、ラッセルは熱い紅茶を飲み下した。いつもならば、いつも通り味のしない紅茶に目を白黒させるところだが、今日ばかりは本当に何も味が感じられなかった。ふい、と姪を見上げてみれば、彼女は心ここにあらずといった様子だった。

 ……僕といるのが、そんなにつまらないのだろうか。
 ラッセルは少々落ち込んだ。ステファンや子供たち――家族といる時の彼女は、いつも生き生きとしている様に見える。だが今の彼女はどうだ。まるで抜け殻みたいだ!

「あの」
「はっ、はい!」

 失礼なことを考えていたので、自然、ラッセルの背筋は伸びる。それを疑問に思うでもなく、アイリーンの瞳は真剣だった。

「何でしょう……?」
 何かやらかしてしまったか、とラッセルは不安そうだ。しかしアイリーンの悩み事は、そんなことではなかった。

「私……ステファンに、この家を継がせようと思うんです」
「え……?」

 ラッセルは幾度か目をぱちくりさせた。ようやく話が理解できたときには、彼も姪同様、真剣な表情へと変わっていた。

「詳しく聞かせてもらってもいいかな?」
 アイリーンも頷く。紅茶を入れたはいいが、口をつけようともしていなかった。

「もうすぐステファンの十五の誕生日――彼も、いよいよ成人します。これを機会に、爵位を相続させようと思うんです。今回の誘拐事件で思い知りました。やはり、今のままではいけない、と。リーヴィス家には未だ当主となる人がいない。全部が全部そうだとは限りませんが、このことも、今回の事件を助長させる要因の一つだと思うんです。私が結婚なりしてきちんとした地位を持っていれば、皆に迷惑をかけることも無かったでしょう」
「……そうか」

 納得したようにラッセルは頷いたが、瞳は戸惑ったように動いている。アイリーンは首を傾げた。

「どうかしたんですか?」
「ああ……いや、ちょっと驚いて。てっきりこの家は君が継ぐのかとばかり思っていたから」
「ご冗談を。私にはそのような才覚はありませんし、家は男児が継ぐべきですわ。両親もそのつもりでいたようですし」
「……でも今は状況が違うだろう? 大人もいない中、君を慕う弟と子供たちでこの家族は成り立っている。嫌な言い方かもしれないが……ステファンがこの家を継ぐことで、今とは違う子爵家になるかもしれない。それでもいいのかい?」
「確かに、そうですね」

 叔父の言い分も分かる。
 アイリーンは頷いた。

「でも……それでも私はステファンが適任だと思います。もちろん、彼が家を継いだ後も、私も手伝うつもりですが」
 確かに、爵位をステファンが継ぐことで、子爵家の今後のあり様は変わるかもしれない。ウィルドたちだって戸惑うかもしれない。それでも、きっと悪い風には転ばない。そんな確信があった。

「あれ……お二人ともいやに早いですね」
 唐突にドアが開いたと思ったら、そこから現れたのはステファンだった。当の本人の登場に、二人は顔を見合わせた。

「おはよう」
「おはようございます」
「ステファン、ちょっとこっちへ来てくれる?」

 早速ではあるが、アイリーンは固い面持ちで弟に声をかけた。自分も紅茶を……と彼はキッチンに向かっている途中だったが、やけに姉が深刻そうだったので、飲み物は諦め、ラッセルの隣に腰かけた。

「どうしたんですか? 二人してそんなに改まって」
「ステファン、もうすぐ誕生日だったわね?」
「ああ、そういえばそうですね。それがどうかしたんですか?」
「誕生日を迎えたら、あなたもいよいよ成人よね。それを機会に、あなたにこの家を継いでほしいと思って」
「は……? な、何ですか、それ」

 ステファンは引き攣った笑みを浮かべる。交互に姉、叔父とを見比べるが、両者とも真剣な表情をしていた。ゆっくりとステファンの顔も引き締まる。

「どういう、ことですか。それは、二人の間ではもう決定事項だと?」
「まだ決定したわけじゃないけれど、でも私はその方が良いと思っているわ。ステファンにお願いしたいの」
「…………」

 ステファンはしばし押し黙る。頭の中を整理するつもりだった。しかし次に口を開いた時、頭はさらにぐちゃぐちゃになっていた。

「何を……急に。そんなこと言われても、はいそうですか、なんて簡単に言えません!」
「急? でもあなたは子爵家の唯一の嫡男だわ。あなただってそれは承知のはずでしょう?」
「でもそれは父上がまだ生きていた頃のことでしょう。僕は姉上の方が適任だと思います」

 姉弟の間で意見が真っ向から食い違い、両者は鋭い視線で睨み合う。

「叔父上は、どう思われますか」
「へえっ?」

 唐突に矛先が自身へと向いたので、思わずラッセルは間抜けな声を出した。

「ぼ、僕……?」
「叔父上だって一応子爵家の一員です。あなたは、これについてどう思われますか」
「どうって……」

 ラッセルは緊張の最中、ごくり、と唾を飲み込んだこのピリピリとした空気の中、。もしも対応を間違えれば、外へ放り出されてもおかしくはない……! 二人の間を取り持つためにも、ここは何としてでも大人の対応をしなければ――。

「僕は、まず二人それぞれの言い分を聞きたい。まずはアイリーン。君が話してくれないか」
 いつにもまして、ラッセルが頼もしい。しかしそう感極まるほど、今の姉弟に余裕はなかった。

「……そうですね。それがいいわ」
 アイリーンは息をついた。ラッセルもほっと胸を撫で下ろした。
 長い間共に暮らしていた姉弟だ、話し合いの場さえ設ければ、仲違いすることなどあるまい――。

「まず私は、嫡男であるステファンが爵位を継ぐべきだと思います。女性が家を継いだら、それこそなんて陰口を叩かれるか分かったものじゃないわ。別に私はそれが怖い訳ではないの。でも、ここにはまだエミリアもフィリップもいる。二人に危害が及ぶようなことは、もうしたくないの。それにステファン、あなたは王宮の官僚を目指しているでしょう? そのために、爵位は無いよりもあったほうがいい。そりゃあ、この家にはお金も土地もないし、あるのは家名だけだけれど、それがいつか、あなたの役に立てると私は思っているわ」

 ……正論だ。
 ラッセルは再びつばを飲み込んだ。さあ、これにどう反論するステファン!

「うまく論理的に説明しましたね、姉上」
 しかし対するステファン、余裕の笑みだ。

「では僕は逆に感情論に訴えたいと思います。よろしいですね、叔父上?」
「……うん? ど、どうぞ」

 どうして僕に許可を求める、とは思ったが、口には出さなかった。

「姉上は嫡男たる僕が爵位を継ぐべき、とおっしゃいましたね? 僕はそこが根本的におかしいと思います。まず、その考えが古すぎる!」
 バンッとステファンがテーブルを叩いた。カタカタとティーカップが揺れる。

 感情論というのは、こういうこと……?
 先ほど適当に頷いたラッセルだが、早速自分の行動を後悔していた。

「今どき女当主はたくさんいらっしゃいます。夫に先立たれた女性が、女当主として立派に采配を振るった事例も今ではごまんとあるでしょう。それに、どうして今更姉上は世間の目なんて気にするんです! 立派に嫁ぎ遅れているあなたに、周囲の目を気にする恥じらいがあったなんて僕は初めて知りましたよ!」
「ちょっと! それとこれとは今は関係ないでしょう!? 叔父様!」
「はっ、はい! す、ステファン君、今関係ないことを槍玉にあげるのは……」
「すみません、感情的になりすぎました」

 コホン、と咳払いをしてステファンが椅子に座りなおす。一体何だこれ、という疑問がラッセルの頭の半分以上を占めていた。

「僕は、いつものように姉上に自由でいてほしい。女性は今の時代、結婚をしなければ地位が高くなることはありません。中には結婚せずに仕事一筋の方もいらっしゃいます。でも世間の目は厳しい。そんな状況の中、僕は姉上ががんじがらめになっていくのを見ていたくないんです。結婚しないにしても、姉上が当主になれば、少なくとも周りからとやかく言われることはない」

 ラッセルもうんうん頷いた。確かに、甥の言い分もよく分かった。
 要は、この二人は互いのためを思って譲り合っている……そういうことだね? なんて美しい姉弟愛なんだ。しばらく見ないうちに、こんなに成長して……。

 ラッセルは感極まって、独りでに瞳を潤ませていた。しかし彼が呑気にそうしている間にも、事態は更なる展開を見せる。

「私は……多分、そのうち結婚することになるわ。私だって、あなたたちの重荷になるつもりはない」
「別にそんな風に思っているわけでは――」
「要するに、ステファンが危惧している所はそこでしょう? ステファンやウィルド、エミリアやフィリップ。皆が旅立った後、私は一人でどうするか――。でもそれは、私が結婚していればいいだけの話よ。何も当主になる必要はない」
「でもっ……! 皆だってきっとそう思ってるはずだ。姉上の方が当主に向いてるって! 父上が生きていた頃とは話が違うんです。あの頃は、確かに順当にいけば僕が家を継いだでしょう。でも今は状況が違う! 僕たちをここまで育ててくれたのは姉上だ。だからこそ姉上が――」
「私はあなたたちを育てた覚えなんてないわ!」

 今度はアイリーンが叫ぶ。

「私はあなたの母親じゃないもの」
 カッとステファンの頬に熱が集まった。わなわなと震えたのち、漸くの思いで彼は声を押し出した。

「……失礼します」
 それだけ言うと、ステファンは速やかに居間を出て行った。遠くの方で、ガチャンと玄関の扉が閉まる音がした。一気に部屋の中が静まりかえった。

 しばらく、アイリーンもラッセルも動こうとはしなかった。しかしやがて、遠慮がちに居間の扉が開き、そこからウィルド、エミリア、フィリップが入って来た。その顔は一様に暗い。聞かずとも分かった。いつからかは分からないが、話を聞いていたようである。そこまで考えても、アイリーンは無表情のままだった。耐え切れなくなって、いよいよラッセルが言葉を発する。

「その……さ。アイリーン」
「…………」
「あれは……ステファンのプライド傷つけたんじゃない……?」

 ぴくり、とアイリーンの肩が動いた。ラッセルの耳に、はあ、と小さく漏れ出る吐息の音が入って来た。

「……だって、咄嗟に口から出てしまったんだもの、仕方ないじゃない」
 うう、とアイリーンは両手に顔を埋めた。後悔ばかりが押し寄せる。

「……どうせ私は駄目な姉よ」
「そうだね」
「そう思いますわ」
「そう……かもしれない」

 順々に弟妹達が頷いていく。

「否定はしてくれないのね。別に……期待していた訳ではないけれど」
 もはやそのことに衝撃を受けるアイリーンではなかった。

「私が駄目な姉だから……皆でここまで支えあって来たじゃない、生活してきたじゃない。私一人の力じゃないわ。皆……みんなの力があってこそじゃない」
 ぎゅっと唇を噛みしめる。素直になれることなどほとんどないのに、今この場に弟がいないことが、ひどく悲しかった。全てを伝えることができず、ひどく歯がゆかった。

「ウィルドは毎日畑仕事をしてくれて、エミリアは美味しい料理を作ってくれて、フィリップは綺麗に掃除をしてくれて。ステファンだって、買い物してくれたり、皆に勉強を教えてくれたり、何よりいつも、私に小言……いえ、助言をくれたわ。私は考えなしな行動が多いけれど、でもそれは、ステファンがいてくれるからこそなの。私一人では、絶対に生活することができなかった。皆がいてくれたからこそ、ここまで来れたんじゃない」

 再度、アイリーンはしっかりと頷く。

「私は、あなたたちを育てた覚えはないわ。皆で頑張って来たの。それが私達じゃない」